●鎌倉文化 かまくらぶんか
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鎌倉時代の公家や武家・庶民によって創造受容された文化。その特色は,公家と武家の存在にもとづく二元的傾向であった。公家の律令格式に対する武家の“御成敗式目”の制定は,その端的なあらわれであり,『新古今和歌集』の象徴性に対する彫刻・絵画における写実的傾向は,芸術の分野における二元性を示していようし,多様な宗教的価値の共存を肯定する既成仏教と宗教的価値の択一を求めた新興仏教もそのあらわれの一つ。公家の世界における伝統的な和歌は,『千載集』を経て『新古今和歌集』において一つの結実をみた。王朝文化への憧憬と武家政権成立による貴族社会の現実喪失に基づく象徴性はこの歌集の特色で,その象徴性は,のちの茶の湯の象徴主義にも継承され,同集の代表的歌人藤原家隆・定家の作品をもって茶の湯の精神をあらわすものとされた。同集撰者の一人でもあった後鳥羽院の政治的志向は,討幕の動きである承久の乱となってあらわれたが,その企ては挫折,院は再び『新古今和歌集』のなかに沈潜していった。その院の討幕の動きを抑えようとして著したと考えられる慈円の『愚管抄』は,道理の展開を視座とした歴史書であるばかりでなく,公武合体を志向する政論書でもあった。こうした歴史のとらえ直しは仏教界にもみられる。法相宗覚憲の『三国伝灯記』は既成仏教のあり方への強い批判と改革志向がみなぎり,親鸞や日蓮は,仏教の歴史を主体的に受けとめ,歴史のいっそうの展開を自己の使命とした。鎌倉末期の華厳宗凝然の『三国仏法伝通縁起』にはそうした緊張感はないが,既成仏教である八宗(南都六宗,平安二宗)の歴史を肯定的に叙述している。慈円のいう乱逆の世に入って,平氏政権を形成した平清盛を中心とする平家一門の興亡を描いた『平家物語』や『保元物語』『平治物語』等の軍記物は,琵琶法師によって語られた。したがって,例えば一方に読む『平家』があり,他方に聴く『平家』があって,軍記物の享受受容が読む・聴くという二つによって行われたことになる。このことは,識字能力の所有者の存在規模にかかわる問題でもあって,書物としての説話集の存在と,その所収説話が語られたことも同じ意味をもつものといえよう。享受受容の面においても,読む・聴くという二元性があった。そして,読むことは個人による享受受容であるが,聴くことはなにほどかの集団性をもったこともその違いの一つである。『平家物語』は盛者必衰を平氏の興亡をもって示し,無常の様相を描こうとしたが,鴨長明の『方丈記』は,激動の時期を人とすみかの無常によって表現した。前者は源平の内乱にまきこまれた民衆の苦悩は描かないが,後者はルポルタージュ的手法により,災害に苦しむ人びとをリアルに描いている。こうして,ものやことをリアルに見ようとすることが,写実的傾向をつくり出していき,その傾向は彫刻の世界における運慶・快慶ら慶派仏都の作品にみられる。平重衡の南部焼討ちの結果,南都復興の動きの展開するなかで,奈良仏師慶派が浮上してくる。その代表者運慶は,若くして東国のなかにあって東国武士の質実剛健な気風に接していて,その体験も作品に吸収されていると考えられ,運慶は天平芸術の写実的手法を継承発展させた。こうしたいわば中央仏師に対して,地方諸地域の仏像安置の要求にこたえて前代以来の地方仏師の成長していくのもこの時代のことで,10世紀から13世紀にかけて存在する東国の鉈彫りと称される独特の彫刻技術をもった仏師たちもその一群であった。写実的傾向は,絵画の面では,肖像画である似絵や頂相としてあらわれている。肖像画は,もとそれを描くことは,その人を呪詛することになってタブーとされていたが,院政時代以降このタブーから解放されて似絵の盛行となった。遺作に後白河院・源頼朝・後鳥羽院らの権勢者のそれがあり,藤原隆信・信実父子は名手として著名。頂相は新来の禅宗のなか行われた肖像画で,師資相承の証しとして別作され,禅宗の展開とともに広く長く制作された。写実的傾向はまた,この時代盛んに作られた絵巻物にもみられ,『一遍聖絵』はそうした傾向を示す代表作。絵と詞書によって構成される絵巻という表現形式は,すでに平安時代中期にはじまったとされるが遺作はなく,院政時代制作の『源氏物語絵巻』『信貴山縁起絵巻』『伴大納言絵詞』『鳥獣戯画絵巻』が現存最古の作品で,鎌倉時代において,絵巻の制作はピークに達する。絵巻には,世俗の世界を描くものと宗教の世界を描くものがあり,前者は鑑賞のため,後者は宗教的啓蒙のために制作された。前者は物語・説話・行事・軍記物などが,後者は寺社の縁起と高僧伝がその内容で,縁起絵巻は既成の寺社による制作が多く,寺社や神仏の霊験を強調する霊験譚を中心とする説経とともに勧進の折にも利用された。高僧伝絵巻の中心は浄土教系新興仏教の開創者法然房源空・親鸞・一遍の伝記絵巻であり,他に元暁や義湘の絵巻(華厳宗祖師縁起)や鑑真らのそれがある。絵巻はその形態からいって,同時には少数の人しか絵をみたり詞書を読むことができないが,これを掛幅にすることによって,より多くの人がみることができるようになるばかりでなく,その絵解き(解説)によって,作品は同時に多数の人のものになる。ここでも詞書を読むことと絵解きを聴くという受容形態の相違への対応があるといえよう。読む・聞くの受容の二元的形態にも関連するが,『宇治拾遺物語』『古今著聞集』『十訓抄』『発心集』『撰集抄』『沙石集』『雑談集』などの説話集の編集もこの時代の特色であった。それは院政時代の『今昔物語集』などに比べて,自照的・教訓的であったりしたが,一方で,啓蒙的な目的からも編集され,なかにはその一部が説経の台本となったものもあったと考えられる。ただ,その基調には多様な宗教価値の共存を肯定する立場があった。これらは漢字仮名交り文により書かれているが,この仮名交り文によって,仏教者たちは自己の教説を述べていった。とりわけ,新興仏教創唱者にそれが多く,かれらの著作のなかには漢文体のものもあるが,著作や書状における仮名交り文は,日本人の日本語による仏教哲理の提示であると指摘されていて,日本仏教の成立と評価できるのである。古代から中世への変革のなかで,人びとの宗教的エネルギーか噴出し,人びとは仏教の新しいあり方を求めた。こうしたなかで新しい仏教が創唱され,人びとの要望にこたえようとした。源空・親鸞・一遍・栄西・道元・日蓮らがそれを行った。一方,既成仏教もこうした状況に対応しようとして,自己改革を行い,これにこたえようとした。覚憲・貞慶・高弁・覚盛・叡尊らはそれを行っていった。日本仏教史のなかのピークともいうべきいわゆる鎌倉仏教は,こうした動きをとった新興・既成両仏教を含むものであったのである。この時代もまた,中国文化の影響をうけている。入宋した僧や中国からの来日僧らによって,中国文化の摂取と伝来が行われた。新来の仏教である禅宗とともにその建築様式が導入され,唐様・禅宗様ともよばれる,中国絵画史上新しい転機をつくり出したとされる宋元画も輸入され,室町時代の水墨画発展の基礎となった。この時代の中国で盛んであった禅宗もまた入宋僧や来日禅僧によってもたらされたばかりでなく,源空や日蓮はむしろ陳・隋・唐の古代中国仏教を自己の仏教のルーツとした。宋学ともよばれるように,朱子学はこの時代に出た朱熹により大成され儒学の主流となっていたが,この朱子学も禅僧によって伝えられ,かれらのあいだに行われた。当時,中国の禅僧の間には,儒・道・仏の三教一致論が唱えられていて,禅仏教と儒教が近接していた。こうした風潮も加わって,禅僧による朱子学の伝来があった。道元はこの三教一致論を強く否定して,このような風潮のもとにある中国にはもはや正法は存在しないとまで強く批判したが,禅僧の朱子学摂取はいっそう進んでいき,次代の,鎌倉政権を否定して成立した建武中興政権の理論的主柱になったのは,大義名分を重んずるこの朱子学であったといわれる。