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●鎌倉仏教 かまくらぶっきょう

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 鎌倉時代の既成・新興両仏教の総称。新興仏教のみを意味することがあるが,歴史的ではない。既成仏教もまた中世社会に対応していったのであり,新旧の概念ではわりきれない面をもち,むしろ既成仏教を中世仏教の正統とする見解も出されている。既成仏教と新興仏教との基本的違いは,前者が多様な宗教的価値の共存と行(実践)の多様化とを肯定するに対して,後者は宗教的価値の択一(選択)と一行を専修し,そこから選択した一仏・一経・一行以外の諸仏・諸経・諸宗・諸行の否定が胚胎展開することにあった。鎌倉仏教は,古代から中世への変革に対応した知的・宗教的動きであり,変革期に特徴的に噴出した宗教的エネルギーにもとづく宗教運動である。仏教の新しいあり方への要請は,すでに11世紀後半に芽ばえ,12世紀にはいっそうたかまり,その後半から13世紀にわたって,新仏教の創唱と既成仏教の改革が行われていった。そうした動きの契機となったのは,1052年(永承7)末法に入ったと受けとめられたことである。これは中国仏教界で考えられたことで,仏滅後を正法五百年または千年,像法千年,末法万年の三段階に分ける正像末三時説といわれ,日本にもこの説が受けいれられた。中国では仏滅年代を前949年とし,正法五百年とするのが一般的であったから552年が末法第1年となり,日本では正法千年としたから入末法の年は1052年であった。末法とは,仏の教えのみがあって行・証もない終末的段階であった。いっぽう,仏滅後500年ずつ5段階を設定するのが五百年説・五堅固説で,闘諍堅固とされる第5段階の最初の年も1052年であって,この年以降,日本は末法と闘諍堅固の段階に入ったと意識され,人びとは社会的・宗教的現象のなかに末法を感じた。その一つに霊験の頽落があり,この現象に対して,それゆえに霊験の再強調が行われ,霊験譚の編集や解説が行われ,霊験絵巻が制作されるとともに,そのいっぽうで,常住不滅のものが求められていった。さらに教団の世俗化や僧侶の武装・武力行使なども僧俗の人びとに末法意識を抱かせ,世俗化した教団を離れて真摯な宗教生活を営もうとする聖たちを輩出させた。こうしたなかで,既成教団の改革と新しい仏教の提唱がほとんど同時に出発していった。前者は法相宗覚憲とその弟子貞慶による僧宝の再建運動であり,貞慶のそれは戒律の復興としてあらわれ,その動きのなかから,自誓受戒によって戒師となって律宗を中興した叡尊覚盛らの持戒持律の勧めもでてきたし,華厳宗の明恵上人高弁もまた戒律を重視するとともに仏教の平易化にも努めていった。いっぽう,法然上人源空はそれまで既成教団に内在していた浄土教を独立させ専修念仏を勧めていき,源空と同時代に生きた栄西は中国に行き当地で盛んであった臨済宗を伝えた。鎌倉新興仏教とは,日本に内在していた浄土教や法華仏教の新たな展開と,外来の禅宗の展開とをその内容としている。前者に源空・親鸞・一遍・日蓮がいるし,後者には栄西・道元蘭渓道隆そのほかの来日僧がいた。源空・親鸞・日蓮・栄西・道元らはともに一時期天台宗の中心であった比叡山延暦寺で学んでいる。その意味では延暦寺は新興仏教の母胎であったが,天台宗では,院政時代から中古天台とよばれる新しい傾向が胚胎発展していった。その特色は,凡夫は本来覚った存在である(本覚法門)にもかかわらず,それを認知していないから,そのことを自らのなかにみいだすこと(観心)であるとする点にあり,このことはやがて修行の無視にまで及んでいった。旧天台僧であった新興仏教の創唱者たちは,こうした傾向に対して,仏と凡夫との超えることのできない隔絶の認織や修行を必要としないならば,諸仏はなぜ修行したのかという疑問を抱いて,それぞれの解答を求めていき,末法には教えのみあって行・証なしとする危機意識を踏まえて,末法に行・証のあることを示した。源空や親鸞は,阿弥陀仏の本願である念仏を行うことやこの仏から廻施される信心を本とすることにより,凡夫の往生→成仏(証)を提示,日蓮は仏と凡夫の隔絶は,『法華経』の題号を「南無妙法蓮華経」と唱えて(唱題)仏のもつすべての功徳を護与されることにより超えられるとし,信心を本とした。道元は修行の意味づけを行い,ひたすら坐禅(行)することのなかにしか証はないとして,修証一等をその立場とした。彼らはこうした実践面ばかりでなく,自己の仏教を経論疏などによって支える合理的実証的傾向を強くもっていて,理論面を必ずしも重視しなかった中古天台の傾向と対立的であった。さらに,新興仏教はそれぞれ既成仏教や政治権力によって迫害弾圧されたことによっても共通する。源空・親鸞らの専修念仏弾圧,栄西・道元の禅宗弘通に対する天台僧徒の圧迫,日蓮の二度に及ぶ流罪,一遍が鎌倉での教化をこばまれたことなどはそれである。さらに院政時代以来,人間のとらえ直しが行われていた。この人間を肯定的にとらえて,人びとのもつ器量(資質・力量)を信頼して,すべての人間に仏法を行ずることによって成仏を達成する器量ありとしたのが道元であった。これに対して,人間を悪人・罪人ととらえた否定的人間観があった。悪と罪とは同義語的関係にあり,破戒を意味することが多かった。生きていくために不殺生戒や不邪婬戒を犯さざるを得ない人びとの反省を踏まえ,そうした人びとを救おうとしたのが,源空・親鸞・日蓮らであった。既成仏教に属した貞慶にも主体的な悪の自覚はあったとされている。しかし,貞慶は戒律の復興に努めていった。そして,その流れからは,破戎をすることなくあくまでも持戒を続けていくことを勧めた覚盛叡尊がでた。栄西や華厳宗円照も同じであったが,とりわけ叡尊の持戒持律の運動は広域にわたって多くの人びとを動員している。既成・新興両仏教の人たちは,寺院・道場・草庵などを根拠として人びとに仏教を勧めていったが,そうした根拠をもたず,各地に遊行して賦算に努めるという特異な弘通をしたのが一遍で,賦算とは,「南無阿弥陀仏(決定往生六十万人)」と記された算(ふだ)をくばることである。一遍はこの賦算のための遊行漂泊の旅を続けた。既成仏教のうち天台宗において,中古天台とよばれた新傾向が展開したのに対して,南都仏教のなかにも,単なる奈良仏教への復古・中国仏教の受容ではなく,新たな日本的展開がみられ,数学の平易化が行われた。そうした平易化を示すのが,漢字仮名交り文による述作で,鎌倉仏教の人たちは漢文体の著作だけでなく,仮名交り文により著述し書状を書いている。そのことは,日本人の日本語による仏教哲理の提示として指摘されていることで,日本仏教の成立とも評価できることである。仮名交り文の書状による教えの解説と信仰の勧めとは,これまた鎌倉仏教の特色で,遠隔の地にある人びととの結びつきとその持続は,このコミュニケーションによるものであった。さらに,無住の『沙石集』を代表とする諸書の説話集もこの仮名交り文によって記されていた。仏教の日本的展開が行われた根底には,中国仏教の摂取と影響があった。禅仏教は中国からの移植で,日本からの入宋僧や中国からの来日僧によって行われたばかりでなく,禅宗様と呼ばれる寺院建築の手法や宋元画の輸入も行った。親鸞もまた新来の中国浄土教の書籍を参照している。同時代の中国仏教ではなく,溯って陳・隋・唐代の中国仏教の影響をうけたのが,源空・日蓮叡尊らであった。源空は唐の浄土宗の善導の著作によって専修念仏に帰入し,日蓮は陳・隋代の天台宗のチギ※注1※によりその教学の基礎を構築し,叡尊は律宗の基本的文献である唐の律宗の道宣の著作を入手するために,弟子をわざわざ中国に派遣して,これを日本に伝えさせている。高弁もまた唐代の華厳経研究者李通玄の影響をうけている。陳・随・唐の時代はすでに中国での末法段階に入っていて,その段階で書かれたチギ※注1※や善導の著作は,500年の時差をとって入った日本の末法段階において強い影響を与えたのであって,鎌倉仏教は中国仏教と深くかかわっていたのである。

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