●鎌倉幕府 かまくらばくふ
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12世紀未,1192年(建久3)から1333年(元弘3)のあいだ,142年間にわたって相模国(神奈川県)鎌倉に設けられた武家政権,またその機関をいう。中国では出征中の将軍の幕舎を「幕府」と称した。日本においては近衛府の唐名で,ひいては近衛大将の居館や,征東将軍の維幕を意味した。文献では『吾妻鏡』の1185年(文治1)6月5日の記事に〈癸巳,夜に入りて,江太夫判官公朝,仙洞の御使として参向の由,因幡前司(広元)に相觸る。因州先づ家中の招請せしめて,幕府に参じ申すと云々。〉とみえる。室町・江戸時代は征夷大将軍を首長とする政権を称した。この幕府の成立については,源頼朝が1180年(治承4)に以仁王の令旨を奉じて,相模の石橋山(小田原市)に旗あげをして,10年ののち1192年に征夷大将軍に任じられた時としている。また一方には,1184年(元暦1)8月頼朝が鎌倉に公文所・問注所を置いた時としているものや,1185年(文治1)に頼朝が勅許を得て,諸国に守護・地頭を置いた時としている。とくにこれを力説したのは『群書類従』を編さんした塙保己一と石井良助などである。この機関は,頼朝が平家を追討するために家人武士たちを集合した家政の庁であった。頼朝は1185年(文治1)平家を滅亡させ,この年,弟の源義経らが謀反をおこしたことによって,これを取り締まるために諸国に守護地頭を置き,諸王・貴族・社寺の荘園を問わず反5升の兵糧米を課することを奏請して勅許を受けた。またこれらの軍事を司るために,平家の六波羅探題にならって,鎌倉に侍所を置いて,別当に和田義盛を任命した。のち公文所・問注所を置いた。1189年(文治5)奥州の藤原氏を討つと,頼朝の武威は全国の津々浦々に及んで,その家政的な機関は,おのずと国政の一部を負う形となった。1192年頼朝は征夷大将軍に任命されると,この家政の庁も名実ともに具備されて政所に別当・令などを置き,問注所に執事・公事奉行人を置いて,訴訟問題などを担当させた。侍所は別当所司を置いて御家人の人事や軍事を司らしめた。また先の公事奉行人は7人と定められた。そのほかに,京都には京都守護職,九州の大宰府には鎮西奉行なども置かれた。これらの長官には有力な御家人が任命された。1199年(正治1)頼朝が没して,源頼家が2代将軍となると,政子や北条氏によって訴訟そのほかの幕府の行政権はおのずと北条氏に移って行き,また幕府創業の功臣たちは北条氏の手によって滅ぼされていった。これに反抗した頼家は,1203年(建仁3)将軍を廃されて翌年伊豆修禅寺で暗殺された。同年9月弟の源実朝が3代の将軍となった。将軍は幼いために幕府の実権は北条氏によって握られた。『愚管抄』は〈北条ガ世ニ関東ハ成テ,イマダオサナク若キ実朝ヲ面テニ立テ〉と指摘した。3代将軍の没後,幕府は将軍を京から迎えた。1221年(承久3)討幕が計画されたが,これは三上皇の配流をみて終わった。幕府はこれによって守護・地頭を強化し,一方,御成敗式日(貞永式目)を定め,1225年(嘉禄1)評定衆・引付衆を置き,幕府の行政を合議制に改めて公平な政治につとめ,人々の信頼を得たが,一方には幼稚な将軍を擁し,将軍が年長に及べば将軍を京に帰し,再び年少の将軍を迎えることを方針とした。1240年(仁治1)人身売買を禁じ,1243年(寛元1)十年以上の奴婢の解放を命じ,10歳以後は年期については地頭の成敗にまかせた。米国の奴隷解放より618年ほど前であった。幕府は1274年(文永11)蒙古の日本国への来襲を受けると,これに鎮西・中国の守護・御家人を動員して,1275年(建治1)箱崎から今津にいたるあいだの博多湾の沿岸に石塁を築いて元軍の上陸に備え,異国警固番役を設け「異国征伐令」を出して中国・西海・南海の守護に兵船を用意させた。こうして幕府は,これら将兵によって元の来寇を退けたが,これが幕府の財政の破綻をきたして,正中・元弘の両度の後醍醐天皇の討幕によって滅亡した。
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