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●鎌倉五山 かまくらござん

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室町時代、京都五山に対して定められた鎌倉の建長寺・円覚寺・寿福寺浄智寺浄妙寺の5カ寺をいう。これは中国は南宋に起源をもつ禅宗の官寺制度を日本に移入したものである。この五山のおこりは釈尊をまつるインドの鹿苑(ろくおん)精舎などの五精舎と、頂塔・牙塔などの十塔所にならって中国の南宋のころにできたもので、そのころ禅宗は宋室の宮廷や士大夫などの官僚と密着してその影響も多く受けていた。径後・天童山などの五山と十刹、諸山の三つの階級からなる官寺制度ができ、これに伴って、禅僧の階級も確立された。禅僧は永い修行の行程をおえたのち修行者の首座となって、初めて官寺の住職となる資格を得て、ついで正式の任命を受けて官寺の住職に進むことを出世といった。以後その人の努力と才能によって諸山から十刹、さらに五山に進むことを決められていた。やがて鎌倉の末期に蒙古軍の南宋侵入にともない、多くの名僧が日本にその難をさけて来朝して、この制度をわが国に伝えた。まず鎌倉の建長寿・円覚寺・寿福寺浄智寺などが五山の称号を幕府から与えられた。やがて鎌倉幕府滅亡の後に京都の南禅寺建仁寺東福寺がこれに列せられた。やがて足利氏による室町幕府の成立に伴い天龍寺も五山の一つに加えられたが、1341年(暦応4)に五山第1に建長寺と京の南禅寺、第2に円覚寺と京の天龍寺、第3に寿福寺、第4に京の建仁寺、第5に京の東福寺、鎌倉の浄智寺は、この第5に準じて五山の次位と決定された。しかし中国では「五山」は原則的には5カ寺に限るとされていた。つまり中国では5カ寺は5段階の寺格を示していたものであったが、日本では、のち、1386年(至徳3)足利義満によって次の禅寺が最終的に定められた。つまり南禅寺を京・鎌倉両五山の上に置いて、五山第1に鎌倉の建長寺と京は天龍寺。第2は円覚寺と京は相国寺。第3は寿福寺と京は建仁寺。第4は浄智寺と京は東福寺。第5は浄妙寺と京は万寿寺となった。室町幕府は、このもとに関東十刹と京都十刹を置いた。この五山は幕府の禅宗政策の一大拠点となった。幕府は、これら両五山と十刹・諸山を直接統轄するために禅律方を設けてこれに幕府の重臣を当てた。これは中国の南宋の中央集権的官寺体制に模して組み替えられたもので、五山の住職任免、私寺から官寺への昇格の認定は、これを幕府が掌握し、私寺から官寺へ五山に入寺の場合は約50貫文の官銭を幕府に納めさせた。やがて、五山の代表的門派である夢窓派から春屋妙葩が出て、1379年(康暦1)全山の主導権を握るに及んで五山は武家の管理を離れて自らの手にゆだねられた。ただし、官寺の住職の任免権は幕府に残された。こうした五山は禅家の主役を演じて来たが、その五山の官寺の中心は夢窓疎石とその一派、つまり鎌倉禅林の出身者であった。これらの師夢窓国師は1275年(建治1)宇多天皇9代の孫として伊勢国の生まれであった。1292年(正応5)に平塩山の空阿のもとで得度して名を智曜と改め、のち夢中問答によって禅に帰して元僧一山一寧に参問し、1299年(王安5)那須の高峯顕日の薫陶を受けて悟脱したといわれる。1327年(嘉暦2)鎌倉浄智寺住持のころ鎌倉紅葉ケ谷に瑞泉院(寺)を開きその寺後の山に一宇「遍界一覧亭」を建てて五山の僧を招き、よく詩歌を賦した。つまりこれが「五山文学」発祥といわれた。1329年(元徳1)円覚寺第15世となったが、のち甲斐に移り京に入って1351年(観応2)に没した。遺骨は京都臨川寺に葬られたが、のち鎌倉の円覚寺の黄梅院を塔所とした。『五山文学』は夢窓国師を中心とした禅僧によって生みだされた漢文学で詩文を中心に偈・法語・日記・随筆・紀行文などと多彩で、一山・疎石の門下によって五山文学は、いっそうに栄えて中厳円月義堂周信絶海中津などの漢文学詩人などを輩出した。またこれらの作品は禅僧によって「五山版」として刊行された。


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