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●カノッサの屈辱 カノッサのくつじょく

AD1077 

 聖職叙任権をめぐって抗争中の1077年,神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世カノッサ城において教皇グレゴリウス7世に破門のゆるしを乞うた事件。カノッサ城は北イタリア,レッジョ西南のアペニン山脈斜面にあり,940年ころ創建され,事件当時はトスカナ辺境伯マティルダの居城であった。

【事件の背景】この事件の背景としては,ザリエル朝の皇帝による王領地の拡大=集権化の政策とそれに対する諸侯・高級貴族の反発,皇帝による教会高権の所有,クリュニー修道院に始まる修道院・教会改革運動とが重要である。ザリエル朝コンラート2世ハインリヒ3世は一貫して国王直轄支配地の拡大政策をとり,ハインリヒ4世も母后による摂政期に失われた王領地の回復につとめてその政策を継承したが,そのために諸侯,高級貴族の反発を招いた。1070年〜75年のザクセン貴族の反乱はその爆発したものである。皇帝に反発するこの諸侯,高級貴族をクリュニー修道院に始まる修道院・教会改革運動に結びつける役割を果たしたのが,皇帝のもつ教会高権であった。オットー大帝による神聖ローマ帝国の建設以来,皇帝は〈王にして,かつ司祭者〉として,世俗の支配権と同時に,国内最高の司祭者たる資格において国内の聖職者の任命権をもっていた。これが教会高権である。しかも皇帝は帝国統治上の重要な職責を司教や大修道院長に託していたので,彼らに対する任命権は帝国統治上皇帝にとって不可欠になっていたのである。クリュニー修道院に始まる修道院改革は聖職売買聖職者妻帯を一掃して修道生活の理想に立ち帰ろうとする運動であったが,外部権力の干渉を排除して教皇に直属しようとする要求をも含み,教会高権を所有する皇帝と衝突する側面をもっていた。南ドイツの高級貴族はこの改革運動に呼応して,建設した修道院を教皇に寄進し,実質的な修道院支配権を留保する方法をとって,皇帝の教会高権を回避したのであり,ここにザクセンから南ドイツ・ローマへと通ずる反皇帝の抵抗線が形成されることになったのである。

【事件の経緯と意義】クリュニー修道院の改革運動から大きな影響を受けていたグレゴリウス7世は,教会に対する俗権の干渉の排除だけでなく,俗権に対する教権の優位を実現しようとし,1075年,ハインリヒ4世がミラノ大司教そのほかの叙任を行ったのを機に,皇帝に激しい非難を浴びせ,悔い改めをしなければ破門,廃位するとの文書を送った。これが叙任権闘争の発端である。それに対して皇帝は翌年ヴォルムスに全ドイツ司教会議を開いてグレゴリウスの廃位を宣言したが,グレゴリウスは皇帝の破門とすべての臣下の皇帝への忠誠義務の解除とによって応え,それを知ったザクセン・南ドイツの高級貴族はハインリヒの廃位と新国王の選出を企てた。事態の打開のためには教皇のゆるしを乞うほかないことをさとった皇帝はひそかにモンニスニの峠を越えてイタリアにむかった。ドイツの諸侯会議に出席すべくローマをたったグレゴリウスがカノッサ城に滞留していたとき,皇帝はそこに辿りつき,1077年1月25〜27日の3日間,布衣,裸足の姿で寒風の吹き荒ぶ城外に佇んでゆるしを乞い,城主マティルダのとりなしでようやく破門をとかれた。帰国後皇帝は反乱諸侯を罷免してその優位が回復すると,グレゴリウスは再び皇帝を破門するが,皇帝は逆にクレメンス3世を対立教皇に立て,イタリアに攻め入って,グレゴリウスをサレルノに逃亡させるのである。この経過から知られるように,カノッサの屈辱事件によって教皇側が一方的に勝利したのではないが,グレゴリウスの敗北と逃亡によって皇帝側が最後の勝利を収めたのでもない。事件の原因であった聖職叙任権闘争は,やがて1122年のヴォルムスの協約で妥協的な解決をみるのである。