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●カナダ連邦 カナダれんぽう

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 近代カナダは1867年の〈カナダ連邦〉,すなわちコンフェデレーション(Confederation)の達成をもってはじまる。しかし法的にはまだイギリスの植民地にあり,それは即カナダの“独立”を意味しない。ただカナダ連邦結成の意義は,従来ばらばらであった英領北アメリカ植民地が,まず4州からとはいえ統合され,それが近代国家として発展していくもととなった点にある。したがって,このときをもってカナダ建国の年とされる。連邦結成の要因は主に三つある。第1は,当時〈カナダ東部〉(現・ケベック州)および〈カナダ西部〉(現・オンタリオ州)と呼ばれていた〈連合植民地〉が政治的行き詰まり状態にあったこと。当時,同植民地の立法議会は,〈東部〉と〈西部〉の二つの行政区から代表を選出していたが,法案の成立には両者の〈二重の多数決(ダブル=マジョリティー)〉によらなければならなかった。だが東・西ともに利害を異にするところも多く,それは議会運営に著しい障害となっていた。1854〜64年にかけ,内閣は10回も交替する有様だった。同時に,“西部”ではG.ブラウンを中心に,議会の比例代表制導入などを求める改革派の動きも活発化していた。たとえば“東部”と“西部”の人口は,1861年に111万対189万だったが,選出議員は同数(65名)という不均衡のままだった。半面,宗教教育の廃止の動きは,〈東部〉にとって受け入れられなかった。しかし1864年になると,〈東部〉の過激な少数派を除き,他の保守・穏健・改革の各派は〈大連立〉内閣を形成するまでにこぎつけた。各派に利害の対立点はあったものの,その底流に,政治的行き詰りの打開には法制上の根本的改革を合め,各植民の統合が必要,との共通の認識があったからである。

 第2は,経済的要因である。1854年にカナダ・アメリカの間で,すべての主要原料について自由貿易を認める〈互恵条約〉を結んでいた。しかし1866年にはそれが廃棄されてしまう。そこで英領北アメリカ植民地側としては統合をはかり,独自の経済的促進をめざす必要が生じてきた。一方,それと前後するが,1850年代より各植民地を直結する連絡網,すなわち鉄道建設が重要な課題となっていた。定住をはじめ,それが各植民地同士の経済発展上,大きな刺激剤となりうるからである。

 第3は,防衛問題である。1861年にアメリカ合衆国で生じた南北戦争,およびアイルランド独立をめざす合衆国内の過激な反英派(フェニアン)によるカナダ襲撃事件,こういった不穏な動きが,カナダの防衛問題を再びクローズ=アップさせた。ひいてはそれが,植民地統合を勢いづける決定的要因ともなる。1864年9月,各植民地代表はプリンス=エドワード島に集い,〈シャーロットタウン会議〉が開かれた。同会議自体は,本来,沿海植民地の統合の可能性を探るものであった。しかし連邦推進派のJ.マクドナルドらの意向が功を奏し,連合についての本格的協議は,同年10月,ケベックに場所を移して開かれた。その結果,連邦結成をうたう72カ条の〈ケベック決議〉か採択され,同決議はのちに各植民地での会議にかけられた。各地で紆余曲折の論議が展開され,とりわけ大西洋に目をむけている沿海植民地からは反対もあった。しかし1866年までにはプリンス=エドワード島ニューファンドランドを除き,連邦決議案は承認された。そして1866年12月のロンドン会議を経て,翌年3月,〈英領北アメリカ法〉か英女王の勅許を得るにいたる。こうして1867年7月1日,オンタリオケベックニュー=ブランズウィックノバ=スコシアの4州からなる〈自治領カナダ(ドミニオン=オブ=カナダ)〉が誕生した。連邦達成の推移をみると,それはアメリカ合衆国の外圧に対する内側からの結束,および各植民地の利益を優先させた“妥協の産物”,という色彩が強い。したがってその基幹である〈英領北アメリカ法〉には,高まいな政治的理想主義が希薄であるといってよい。革命よりも漸次的変化,またイデオロギー性よりも現実性を好むカナダ的特性の一端が,そこににじみ出ている。のちの各植民地の連邦加入は次のとおりである(カッコ内は加入年)。マニトバ(1870),ブリティッシュ=コロンビア(1871),プリンス=エドワード島(1873),アルバータ(1905),サスカチワン(1905),ニューファンドランド(1949)。

〔参考文献〕大原祐子『カナダ現代史』1981,山川出版社