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●門割制度 かどわりせいど

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 薩摩藩全般の農村に施行された一種の地割制度で,支藩日向佐土原藩にも多少形態の異なる門割制度があるし,また領内の奄美諸島や琉球にも地割制があるが,かなり異なる。“門”なる名称は1197年(建久8)『大隅図田帳』所載の姶良庄の元吉門が初見であるが,その内容は不詳。島津氏の領国統一が完成し,庶流および国人たちを家臣団体制に編入も終えた時期,すなわち1614年(慶長19)の慶長内検の頃から門体制の普遍化とその直接的把握が始まり,1658年(万治1)の万治内検の結果で,兵農の分離・外城制度の整備確立と表裏一体の関係にあった。それ以後整備されていったが,ことに1711〜16年(正徳年間)と思われる厳令により兵農の分離は画然となった。しかし兵農分離=門割体制の完成は1722〜26年(享保7〜11)のいわゆる享保大御支配(総検地)による。元来薩藩領は台風常襲地帯で風水害は日常化し,92%をこえるシラスなどの火山性特殊土壌がいっそう災害を大きくし,極めて生産力が不安定である。そこで天災を均分化し,ひいては農民の生産力を均等化することは,農民にとっても,領主側の徴租の便宜からいっても必要である。かくて一定期間ごとの割替(この配分高は均等で,廻り高という)と,錯圃制(各戸の廻り高をいくつかに分けて村内に分散)を技術的支柱とする割地制が,島津氏の支配体制の確立とともにその領内に普遍化されたのが門割制度で,佐土原藩にも奄美や本琉球にも準用されたのである。門は薩藩農村社会の末端行政単位で数家部の名子(平百姓戸主)から成り,数門が1方限(組,ほうぎり)を,数方限が1村を成し,門の頭を名頭(みょうず,おつな),方限の頭を名主(なぬし,功才)といい百姓役だが,村長の庄屋は必ず郷士から任命されてガッチリと農民を抑えた。割替の時期には庄屋役所に名主や名頭が集まり,廻り高をそれぞれの門の名子数に応じて鬮引きで受け取り,さらに自分の門内の名に配分する。15〜60歳の壮丁を用夫(いぶ)といい,耕作・夫役の負担者とし,用夫の頭数に応じて各名子の廻り高を定めるのが建前であったが,享保検地以後は門の分立を止め,門の廻り高も固定化の傾向,すなわち同じ村内姓が多く,幕末には耕地の配当にあずからぬ2〜3男は日雇や農業外人口の職人となるか,あるいは大隅・日向地方に移住した。同地方は寛郷地帯で,1門は30〜40石,かつ1名子が多かったから,3〜4町の過重耕作となり,夫役の過多と相まって百姓疲弊の原因となり,一家全員がいなくなった禿門や働き手の壮丁のいなくなった半禿門が増加した。かくて借金の棚上げをして身売りしていた壮丁の本村への呼び戻しをする御救門割も行われたし,また禁制の内門割も内々で黙認した。百姓疲弊の根元は,[1]籾高1石につき4斗1合(実際は5斗前後)の苛税,[2]開墾適地の郷士による独占,[3]「月に35日」と俗間に云う公私夫役の過多,[4]ほとんど全作物に対する直接的あるいは間接的専売制度,[5]本来的にはシラスなど特殊土壌と台風害を数えることができるが,究極的には総検地による総門割を怠り,廻り高に不平等が生じたことが農村の疲弊を決定的にした。藩は“人配”(にんばい)という狭郷から寛郷への強制移住策を行ったが,依然として大隅・日向の寛郷現象は解消されなかった。門割制度の崩壊は,すなわち薩藩社会体制の崩壊を意味するものだったから,享保以後も部分的な検地は実施した。門割制度の廃絶による農民解放は1881年(明治14)の地租改正であった。