●香取神宮 かとりじんぐう
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千葉県佐原市香取に鎮座,もとの官幣大社,下総の一の宮。鎮座地はもと鬼怒川の内海に注ぐ地点,梶取の義であって,霞ヶ浦,北浦さらには鬼怒川上流の後背地を商圏とする舟人により,定立された水神であろう。一の鳥居は鹿島神宮と同じく,水中に建っている。中世には鬼怒川・内海の舟人の信仰厚く,1387年(至徳4)の置文に内海海夫供祭料と見えて,内海の舟人は香取神宮に供祭料を奉ることが定められていた。鹿島神宮には,このような海夫管領の実はない。応安年間(14世紀末)の香取古文書に見える海夫の分布は,下総の香取・海上両郡・常陸の鹿島・信太・行方の3郡の村名に比定できる。香取神宮の信仰圏である。【祭神】経津主命(ふつぬしのみこと)を祭神とし,斎主神(いわいぬしのかみ)ともいう。「ふつ」とは光彩赫々たる刀剣である。神代伝承で天祖天照大神の勅をうけて鹿島の神が,出雲の大国主神に国土の奉還を求めたとき,『古事記』は鹿島の神が〈十掬(とつか)の剣を抜きて浪の穂に逆に刺し立て,その剣尖に趺(あぐ)み坐て〉云々とあるその剣は経津主命である。鹿島の神もまた剣を物実(ものさね)とする。神武天皇東征の途次,天神は霊剣を降して,その行を援けられたとある,この霊剣を物実とする武甕槌命(たけみかずちのみこと)を祭神とする。この意味からして香取・鹿島の神は武神として,古くは北は蝦夷に対して神威を崇められ,陸奥の各軍所に鹿島の神は勧請され,武士の台頭をみた中世からは,武士層の厚い敬重が香取・鹿島の神に寄せられることとなった。古く房総の地は忌部氏(いみべうじ)が勢威を張っていたのに対し,鹿島・香取の地は中臣部族が勢を占めていたと思われ,そうした関係から藤原氏一門の信仰が傾注され,天智天皇より文武天皇朝にかけて,神郡の設置・遣使・造営・封戸の寄進が行われ,都が奈良に移されると,香取・鹿島の神ならびに中臣氏に有縁の神々が迎えられて春日神社の祭神となった。
【祭事】香取神宮の例祭は4月14日,その翌15日が軍神祭である。12年めごとの午の年に執り行われる。この日香取の神輿は船に移されて,津ノ宮の烏居河岸から利根川を遡り佐原に上陸する。氏子町村数千名の崇敬者が甲冑武者その他供奉員となり神輿を守護し,佐原の旅所で一泊して翌日陸路帰還する。社伝は天孫降臨のときの軍容とも,あるいは神功皇后の新羅征伐の様を模したものともいうが,神話学的にいえば,利根川(もとの鬼怒川)が香取神の生命の川であって,天神は生命の川を下って下界に鎮座するのである。素盞嗚尊が高天原から降られた出雲の簸川(ひのかわ)に相当する。聖なる川の水の禊により,神は若々しい生命を復活することになるのである。わが国の大社には必ず聖なる水が存在する。鹿島神宮にも御手洗川が昔ながらに伝わっている。この軍神祭を今日〈お船遊びの神事〉とも呼ぶ。佐原の地先牛ヶ鼻に投錨のとき,鹿島並びに小御門両社の祠官は奉迎する。神の合同である。この軍神祭に似た神事が9月1日より3日間執り行われる鹿島の御舟祭(おふなまつり)である。神功皇后の新羅征伐のとき,大御船を祭神が守護せられた故事にもとづくという。鹿島の大船津河岸より神輿を御船に移し,幾百千の扁舟舳艫相摩して供奉し,千葉県津ノ宮の岸にいたり,香取神宮の祠官舟を浮かべ会し祭典を行い,鹿島の神は還御する。明治中葉より13年に1度の祭儀となり,平年は行宮出御にとどまる。香取の神幸は利根川を遡上するのは,古代,香取の神の支配が鬼怒川・利根川・霞ヶ浦に及んでいたことを意味し,鹿島の神幸が香取に赴くのは,香取・鹿島のあいだに頻繁な交通が行われ,陸奥の各軍所に勧請されている鹿島の神ならびにこれを奉ずる地域集団社会の後背の兵站として,香取の神があったことを意味するであろう。
〔参考文献〕神祇院編『官国幣社特殊神事調』1938,初版