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●桂離宮 かつらりきゅう

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 京都市西京区桂御園の桂川のほとりにある旧桂宮(八条宮)の別邸。慶長年間(17世紀初頭)に,後陽成(ごようぜい)天皇の弟智仁(としひと)親王の所領となり,初めは草庵程度であったが,元和年間(1615〜23)から寛永年間(1624〜43)にかけて,茶屋などの造営が行われた。智仁は最初は八条宮であったので,八条宮家の別荘として使用された。中央に中書院を置き,別の場所から移した古書院が隣接する。少し離れた池畔に月波楼がつくられ,池をはさんだむかいに松琴亭がある。これら初期の建造物を総称して“瓜畑のかろき茶里”と,当時呼ばれていた。造庭は,いまなお最高の景観を誇る古書院の前面から月波楼などの茶亭を結ぶ一帯がまず整備された。池のなかに浮かぶいくつもの小島には石橋がかけられ,回道の園路とつながれ,さまざまな角度からの景観が楽しめる。所在地は,平安時代から藤原氏累代の別荘であった由緒から,月波楼などは古典からその名をとられている。また智仁親王は『源氏物語』に深く傾倒しており,そこに描かれた自然のイメージを実現しようとしている。松琴亭の前の池畔は明石洪と呼ばれているし,池の中島は丹後国の天の橋立になぞらえられた。このように,これら建造物と庭園は,古典にちなむ様式を中心としているが,さらに,智仁親王の思想や茶の精神,禅の影響もあり,また,キリスト教精神をもみてとれるとする意見もある。

 1629年(寛永6)に智仁親王は没し,智忠(としただ)親王が第2代となった,親王の前田家との婚儀に及び,新たに古書院の背後に新書院がつくられ,そてつ山には外腰掛が,池の島に賞花亭がつけ加えられた。桂離宮は古来,小堀遠州の作と伝えられているが,その確証はない。ただ遠州の義弟中沼左京と実弟正春が参加していることは判明している。明暦年間(1655〜58),後水尾(ごみずのお)上皇の皇子,第3代穏仁(やすひと)親王が後を継いだ。上皇はこの地を好み,しはしば桂邸を訪れた。1658年(万治1)の御幸に際し,御幸門(みゆきもん)・御幸道(みゆきみち)がつくられ,新御殿(新書院)に上段の間,桂棚・御剣棚が補修され,笑意軒が増造された。このときの補修造営はこれまでに比べて派手で華やかな意匠であった。竹林亭など現存しないものもあるが,3回にわたる造営によって,桂離宮はほぼ今日の姿となった。 桂離宮を全体としてみれば,平安朝趣味に茶湯精神を組み合わせた数寄屋風の書院と,桂川の水を豊富に利用し,神仙島などの中島を散らばらせ,回遊式庭園と調和をはかっている。書院造りの代表と呼ばれる建物は,住居としての機能を重視し,質素な材料を巧みに生かしている。たとえば,桂やくわからなる縁・板戸は素朴さのうちに美しさを秘めている。彩光にも十分に配慮が払われており,明障子(あかりそうじ)の位置にも工夫がある。通風をよくするため床は高く,簡素な縁を踏んで室内に入ると,畳敷きに土壁の間で,明りとりの窓と床の間など,空間を構成する縦と横の線は絶妙であり,心をなごませる。室内の単純な構造のなかへ四季の変化に富む庭の樹木が流れ込み,庭に立てば,点在する建物がアクセントとなって目を楽しませてくれる。全体として渋味のきいた桂離宮にあって,大胆さと華麗さで感動を呼ぶのが,襖の引手のデザインであり,飾棚の金具の装飾性である。ほかにも,松琴亭の大きな市松模様の襖,笑意軒のビロードと金箔からなる張付などが有名である。庭にもまた同じような配慮が行きわたっていて,各所の灯籠・手水鉢(ちょうずばち)・飛石・畳石・延段など,細部にまで入念な計画がこらされており,瓦塀(かわらべい)などの線は,遠近法を一層強める働きをしている。構内の建造物には,これまで述べたもののほかに,御舟屋・中門・中書院・楽器の間・園林堂などがある。総じて,近代精神に通じる美的感覚があふれており,ブルーノ=タウトに絶賛されて,今日では世界的に知られる。