●学校教育制度 がっこうきょういくせいど
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教育制度のなかで学校を単位として構成される教育の枠組みをいう。学校教育制度は,学校の教育目的・内容・教育対象の条件などによって,たとえば,公立学校と私立学校,普通教育を主とする学校と職業教育を主とする学校,というように縦に区分された学校系統と学校の教育水準・教育機能・教育対象の年齢層などによって,横に区分された学校段階とによって構成される。この場合,両者の組み合わせ方において,複数の学校系統が中心となる場合には複線型学校体系,単一の学校系統の場合は単線型学校体系という。【古代】古代の学校教育制度は702年(大宝2)の大宝令によって定められた学制である。これによれば,中央に大学,地方に国学を置くことになっていた。大学は学生400人を限度とし,諸王および五位以上の子孫,東西史部(やまとかわちのふみとべ)の子をもって入学資格とした。教官は博士1人,助博士2人,音博土2人,書博士2人,算博士2人があった。大学の学科は,紀伝道(歴史,文学を主とする)・明経道(修身政治経済)・明法道(法律)・算道(算術)の4道に分かれ,ほかに書道などがあった。国学は主として地方郡司の予弟が学んだ。大学・国学はともに試験があり,その成績によって役人に撰挙された。これらの古代の学校制度は,主として漢・唐代の中国の学校制度を模してつくられたもので,国家の官僚養成を主たる目的としたものであった。また大学寮には曹司(寄宿舎と学問所を兼ねたもの)が設けられたが,大学寮直属の文章院のほか,有力氏族が子弟のために設けた大学別曹があった。和気氏の弘文院,藤原氏の勧学院などがそれで.古代末期には大学に代わって繁栄し,私学の性格を帯びるにいたった。庶民を対象とした学校としては,828年(天長5)に空海が建てた綜芸種智院がある。
【中世】武士の台頭により,古代国家の官僚制は消滅し,大学・国学も衰亡した。武士は戦士として学問よりも心身の鍛練,武芸の錬磨を重視したから,社会機関としての学校を設けなかった。読・書・算などの初等教育は寺院の世俗教育として行われた。中世の教育機関としては仏教の寺院の果たした役割は大きく,とくに鎌倉新仏教と呼ばれる諸宗派は地方各地に道場を設けて民衆教化につとめた。学問の機関としては下野の足利学校と相模の金沢文庫がとくに著名である。また京都の五山も中世後期の学芸の中心であった。中世末期にはキリシタンが伝来し,外国人宣教師によって「セミナリョ(中等学校)」「ノビシヤード(修練院)」「コレジョ(大学)」「アカデミア(研究院)」などのキリシタン学校が建てられた。これらは活躍した期間は短いが,ヨーロッパの学校が初めて日本に伝えられたものとして注目される。
【近世】近世封建社会の学校は大別して武家の学校である藩校と庶民の学校である寺子屋とに分かれ,このほか,郷学・私塾などがあった。藩校は幕藩体制の成立期に家臣・領民への教化を目的として設立され,中期以降は幕藩体制の動揺とともに幕藩政改革の一環として,人材育成・風俗匡正を目的として相次いで設立された。幕府の直轄学校としては,1797年(寛政9)に設立された昌平坂学問所がある。これは当時の唯一の大学程度の教育機関であった。寺子屋は中世の寺院教育に端を発し,近世中期以降,商品経済の発展に伴って急速に発展し,近世後期にはほぼ全国的に普及した。教育内容は読・書・算・修身が中心で,のちに社会科・職業科の内容も加えられた。私塾は近世中期より大都市で漢学塾として発達し,ついで地方の城下町,さらに在郷にも普及するにいたった。また近世後期には洋学・医学・兵学などを教える塾が現れた。郷校は在郷に設立された学校で藩の援助・奨励によるものと民間有志の手になるものとがあり,近世後期には広く普及した。
【近代】近代学校制度は1872年(明治5)の「学制」の発布に始まる。「学制」によれば,学校を小学・中学・大学の3段階とし,小学は下等・上等の二つに分け,各4年ずつとした。中学は上等,下等の二つに分け,各3年ずつとした。大学は年限を定めなかった。小学は上・下等を合わせ尋常小学と称し,基礎教育を授け,国民すべてが就学すべきものとした。中学は正則の中学のほか,工業・通弁・農業などの実業系の学校もあった。大学は最高の諸学を教える学校とされた。このほか,翌年には専門学校・外国語学校の規定が追加された。
1886年,初代文相森有礼は,「帝国大学令」「師範学校令」「小学校令」「中学校令」の四学校令を制定,公布した。この四つの学校令によって小学校から大学までの学校体系の基本が確立した。小学校令では,尋常・高等の両小学をそれぞれ4年とし,尋常小学校を義務教育とした。中学校令では,中学を尋常・高等の二つに分け,尋常中学5年,高等中学2年とした。尋常中学は各府県に公立1校とし,高等中学は全国を5区に分けて各1校を設置し,文部省直轄とした。帝国大学令では帝国大学は〈国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ其蘊奥ヲ攻究スル〉ところとした。師範学校令では,師範学校を尋常・高等の二つに分け,高等師範は東京に1校,尋常師範は府県に1校を設置した。この森文相の教育改革によって布かれた学校体系は戦前の学校体系の原型をなすもので,その後の学校の発達はいずれもこの学校体系を基礎にした整備・充実拡張ということができる。1890年には小学校令が改正され,当時,制定された地方行政制度との関係を明確にした。さらに1893,94年には「実業補習学校規程」,「簡易農学校規程」,「徒弟学校規程」,「実業教育費国庫補助法」などが制定されて実業教育の振興を図った。1894年には「高等学校令」を制定して,高等中学を高等学校として位置づけ,高等教育機関とした。1907年,尋常小学校は6年となり,義務教育年限も4年から6年に延長された。1899年には「中学校令改正」,「実業学校令」,「高等女学校令」の3勅令が公布され,中等教育がこの3種の学校に整備された。これによってとくに女子中等教育が充実することになった。1918年(大正7),臨時教育会議の答申にもとづき,「大学令」「高等学校令」が公布され,公・私立の大学・高校や単科大学が認められることになった。1935年(昭和10)には実業補習学校と青年訓練所を統合して「青年学校」が創設され,普通科2年,本科5年(女子は3年),研究科2年とした。1941年には,「国民学校令」が公布され,尋常小学校は初等科,高等小学校は高等科と改められた。1943年には「中等学校令」が制定され,中学校,高等女学校・実業学校は「中等学校」として統合された。同年「師範教育令」が改定され,師範学校を官立とし,本科3年,予科2年とし,本科は中等学校の上に接続する専門学校程度とした。
【第二次世界大戦後】敗戦後は占領下においてアメリカの教育制度を模した6・3・3・4の新学制が1947年の「学校教育法」の制定によって実施された。この新学制は教育の機会均等の原則によって,従来の複線的な学校体系を改めて単線化し,さらに前期中等教育までの9年間を義務教育とした。新学制の小学校は国民学校初等料より,中学校は国民学校高等科,中等学校の低学年などを母体として設置された。また高等学校は旧制中等学校を母体として設置され,大学は旧制大学・旧制高等学校・専門学校・師範学校等を統合して設置された。高等学校は全日制と定時制とに分かれ,それぞれ3年,4年とされた。また高等学校は普通課程と職業課程とに分かれている。1950年から,大学のうち,2年ないし3年の「短期大学」が設けられた。さらに1961年より,中学校の上に接続する5年制の「高等専門学校」が設置された。さらに1975年の法改正により,「専修学校」の制度が設けられた。この専修学校は各種学校のなかから内容や規模が一定基準以上のものを分離して,その制度化を図ったものである。
〔参考文献〕仲新・持田栄一『学校の歴史』全3巻1979,第一法現
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