●学校教育 がっこうきょういく
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【意義】わが国における現行の学校の範囲は,広義にとれば,幼稚園・小学校・中学校・高等学校・高等専門学校・大学・短期大学のほか,専修学校・各種学校,さらには航空大学校・税務大学校など,各省庁がその設置法にもとづいて設置する大学校などがあり,このような場で行われる教育すべてが学校教育としてとらえられる。しかし通常,学校教育という場合には,学校教育法第1柔に規定されている小学校・中学校・高等学校・大学・高等専門学校・盲学校・聾学校・養護学校および幼稚園で行われる計画的な継続的な教育についていわれることが多い。しかもこれらの学校は,いわゆる公教育を実施するものであって,教えることを専門とする免許状をもった教師がいて,児童・生徒などはいわば学ぶことを専門に通学しているものである。【歴史】原始社会では,それぞれの生活に必要な知識や技術の習得・伝達は,日常生活のなかでごく自然に,いわば無意図的に行われていた。しかし,社会の変化・進展とともに社会的遺産としての文化財が増加し,日常の生活経験だけでは伝達しきれなくなったこと,および文字が文化財を表現するための手段として出現したことなどによって,教育のための機関として学校が組織されるようになった。古くは,学校教育は貴族・僧侶などの,いわば特権階層のためのものであったり,布教のための教化事業,またその事業をすすめる僧侶の養成機関としての性格が中心になっていた。しかし,中世末期ヨーロッパで,商業活動の勃興とともに各地に発生した商業都市で,中小商人や手工業者のような新しい市民生活に入った庶民が,生活の手段としての日常語の読み書きや計算の技能を身につけるため公営公設の学校や塾が生まれてきた。このような学校は,近代国家による初等教育制度の整備が行われるまでは庶民のための教育施設として大きな役割を果たしてきた。近代における産業革命は,各国に急激な経済的発展をもたらし,多数の企業家を中間階級に仲間入りさせるとともに伝統的な徒弟制度が崩壊しはじめたことなどにより,初等学校の体制の整備,人文主義的教養を中心とする中等学校のいっそうの普及,近代的な職業教育機関としての実業学校の成立などをもたらす要因となった。
【日本における近代学校教育の発展】欧米諸国に遅れて近代化を始めた明治政府は,富国強兵・殖産興業・文明開化の旗印のもとで,産業界に近代的生産方法を導入するとともに,軍事・行政・財政上の近代的諸制度を整え,世界の先進国の水準にむかって発展を企図した。わが国における近代の学校教育制度の確立もその一環として行われたものである。それは,国民皆学をめざし,急速に全国的に普及するようになった。とくに,それはわが国の産業の近代化を急速に促進するために,国民の知識の開発・技術の向上を学校を通じて行うという意図に支えられて振興したものである。このように近代学校教育が急速に普及した素地には,近世学校といわれるものがあった。その近世学校の発端は室町時代にさかのぼるが,それはとくに江戸時代に発達した。幕府や諸藩は武士の子弟を教育するために学問所を設けたり,学者の家塾に通わせたりしていた。江戸時代の中期になると,大藩はいわゆる近世武家学校を整備して子弟の教育につとめることとなった。これらの学校は藩校と呼ばれるが,寛政ごろから多くの藩で藩校が設けられ,幕末には小藩でも藩校を設けるようになっていた。また,藩内の主要な町などには郷学を設け,ここで地方に居住する武土の子弟の教育を行っていた。幕府が開設していた学校のうち最も重要な地位を占めていたのは昌平坂学問所で,江戸時代の儒学の中心をなす学校であった。幕府は儒学以外にも,国学のための和学講談所・和漢医学のための医学館・西洋医学のための医学所なども設立した。江戸時代には武家だけではなく,庶民もその子弟に学業を修めさせるようになり,武家子弟の学校とは別の手習所−寺子屋が設けられるようになり,文字の手習い・読書・算盤を用いた計算の学習などをしていた。この寺子屋は,江戸中期から各地に設けられるようになり,文化・文政のころから幕末にかけて多くなり,農山漁村にまで普及し,全国では数万に及ぶものと推定されている。このように,全国的に寺子屋が普及していたことが,明治維新後の初等教育の発展の重要な基盤をつくっていたということができる。
【学校制度】学校制度は一般に,初等教育・中等教育・高等教育の3段階に区分される。高等教育はその起源を中世末期に求めることができる。中等教育にあたるイギリスのグラマースクール・ドイツのギムナジウム・フランスのコレージュなどは16世紀当時にその基礎を築き,富裕階層の子弟に人文主義的教養を与える学校となっていた。これに対して初等学校は庶民階層の子弟の教育機関として成立し,国民教育の制度として整備されたのは19世紀以後である。学校制度の成立には,それぞれの国の自然的・社会的諸条件がその基盤となっているので,欧米諸国の教育制度発展の歴史をみると必ずしも初等・中等・高等という順に発展してきているとはいえず,高等教育がまず発展し,ついで初等教育・中等教育と発展したもの,初等・中等・高等の3者が並列的に発展したタイプなどさまざまである。また,その学校体系のタイプも単線型・複線型など,異なっている。一般にヨーロッパの学校体系は複線型の傾向が強かったが,最近はしだいに複線型から単線型への傾向を強めている。なお就学前教育は多くの場合,初等教育の一部とみなされる傾向がある。義務教育は,従前は初等教育に限られていたが,先進諸国を中心にそれが中等教育の段階にまで及んできている。現在,各国にみられる学校体系の主要なものは,[1]6・3・3制,[2]6・4・3制,[3]8・4制,[4]6・3・2制,[5]5・4・3制,[6]7・3・2制,[7]6・3・4制,[8]6・4・2制,[9]6・5・2制,[10]5・3・3制とさまざまな区切り方となっている。地域別には,アジア・ヨーロッパ・北中米・南米では6・3・3制が最も多く,オセアニアでは6・4・3制と8・2・2制が目立ち,アフリカでは6・4・3制がきわめて多数を占めている。諸外国の義務教育制度については,その始期は6歳からというのが最も多く,ついで7歳であって,5歳や8歳といういわば例外的な国もある。また,その期間については6年とするものが最も多く,ついで9年・8年と続いて多い。もちろんこのほかに10年・7年・5年・11年などもある。多くの国では初等教育の段階は共通しているといえるが,中等教育段階になるとコースが分化してくる。イギリス(イングランド・ウェールズ)についてみると,義務教育は5歳から16歳までの11年間で,中等教育段階になるとグラマースクール(Grammar school)・モダンスクール(modern school)・コンプリヘンシブスクール(conprehensive school 総合制中等学校)などと分かれている。また西ドイツについてみると,初等教育である基礎学校のうえに,ギムナジウム・実科学枝(Realschule)・ハウプトシューレ(Hauptschule)が設けられている。このような伝統的な学校制度に関し,近年,ゲザムトシューレ(Gesamtschule 総合制中等学校)の動きがみられる。また,すべての中等学校の第1,第2学年(通算学年第5,第6学年)は,生徒が自分の能力・適性に最も合った中等教育を受けるための準備期間(観察指導段階)として再編成され,どの種の中等学校にすすむかについての最終決定を,これまでに比べ2年間引き伸ばすことができるようにし,中等教育制度の柔軟化をはかろうとしている。このようなイギリス・ドイツでみられるような中等教育(とくに前期)の総合制化,ないしは柔軟化の傾向はフランスについてもみられる。すなわち,1959年の前期中等教育における「観察課程」の導入や,1963年の総合制の「中等教育コレージュ(前期中等学校)」の創設,さらには,1975〜77年の「アビー改革」による前期中等諸学校の「コレージュ」への一本化などがそれである。このようにして,イギリス・西ドイツ・フランスで行われてきた伝統的な複線型の学校体系の総合制化・柔軟化が目を引くところである。一方,すでに学校体系自体がコンプリヘンシブな構造をもっているアメリカ・ソ連などの場合には,コンプリヘンシブな構造のなかでコースを分化させる方向をとっている。
【わが国における学校制度】1872年(明治5)に公布された「学制」は,わが国における近代学校教育制度のスタートとなるものであった。この布告は,学校教育実施にあたっての教育宣言ともいうべきもので,新しい学校へ人民一般が入学して新時代有用の学を修めなければならないとし,子どもを就学させることは父兄の責任であり,必ずこれを果たさなければならないとした。この「学制」は,学校制度の体系として小学・中学・大学の3段階を基本とした。小学校は,上等小学・下等小学各4年の8年制とされていた。小学校は,学校制度の基礎となる教育を施す機関であって,すべての者が入学しなければならない学校とされていた。中学は上等中学・下等中学各3年の6年制となっており,小学を修了したものが入学することとしていた。また,中学はこの2等のほか,実業教育のための諸学校や補習を行う学校などの種別が設けられていた。大学は高尚の諸学を教える専門の学校で,その学科は大略,理学・化学・法学・医学・数理学とされ,中学を修了したものが入学するものとされていた。また,大学のほか高等教育を行う諸種の学校として,大学教育の基礎となる外国語学習のための外国語学校や,その他の諸専門学校が設けられるものとしていた。なお「学制」には,小学校教師養成のための師範学校を設けることも規定されていた。このように「学制」は,小学・中学・大学を基本の体系とし,そのほかに多様な教育を行う諸学校も計画して近代学校の全体を構想したものであった。明治初期から現在までのいくつかの代表的な時期の学校体系を教育段階別に,おもな学校の種類についてみると次のようになっている。
第1図と第2図は,近代学校教育制度が創始された時期およびその後まもない時期にあたる明治初期の学校体系である。1879年に学制を廃して「教育令」が出され,第2図のような体系がとられた。初等教育としての小学校は制度的にもしだいに固められ,1886年には4年の義務制もしだいに明確になり普及も著しかった。高等教育機関としては,まだ大学・高等師範学校がそれぞれ1校と,若干の専門学校があったにすぎない。第3図は,制度がようやく整備された1900年の学校体系である。すなわち,1886年には「小学校令」「中学校令」「節範学校令」および「帝国大学令」が公布され,新たに「学制」以後の学校体系の整備がすすめられた。さらに1893年には,準中等教育機関の実業学校・高等女学校について法令が公布され,実業教育・女子教育の制度を整えるとともに,高等教育では,1894年に「高等学校令」,1903年に「専門学校令」が公布されて,専門学校・高等学校の制度が確立した。初等教育については,1900年に小学校4年の義務制が確立し,さらに1908年よりはその期間が6年に延長された。第4図は,教育の拡充期にある大正から昭和にかけての学校体系の代表的な例として,1919年(大正8)のものを取り上げている。1918年に「大学令」「高等学校令」が公布され,これによって,1886年の「帝国大学令」以来,大学といえば帝国大学であり,総合大学であったものが,公・私立の大学を認め,また,一学部の大学も認めることとなった。高等学校も公・私立を認め7年制となったのが,この期の特徴になっている。なお1935年(昭和10)には「青年学校令」が公布され,実業補習学校と青年訓練所とを統合して,勤労青少年に対する統一的な教育磯関・準中等教育機関としての青年学校制度が設けられた。また,1939年には国民実力の向上をはかることを狙いとして,12〜19歳の勤労青年(男子)の就学義務制が制定された。ついで,1941年には「国民学校令」が制定され,小学校が国民学校と変わった。第5図は戦時色が農厚となり,皇国民練成のため小学校が国民学校と改められた以後の学校体系である。この国民学校令では義務教育の期間を従来の6年から8年に延長する改正が行われ,1944年度より実施の予定であったが,第二次世界大戦のための戦時特例により実施されないままに終わってしまった。第6図は第二次世界大戦後,新しく制定された学校教育法にもとづく学校体系である。戦前の制度と大きく異なる点は,複線型の学校体系を6・3・3・4制の単線型に改めたこと,中等,高等教育にも男女共学が徹底されたこと,義務教育年限を中学校まで延長し9年間としたこと,そのために専門分化の時期が中等教育の前期から後期へと変わったこと,しかも高等学校に普通・職業・全日・定時・通信などのさまざまな課程が置かれるようになったこと,教員養成を大学で行うようになったことなどである。また,戦前は義務教育の対象外とされていた心身障害者についても,義務教育を行う規定が設けられたことは特記すべきことである。第7図は,1984年現在の学校体系である。1949年当時(第6図参照)と異なる点は,高等専門学校の制度が設けられたこと(1962),当分のあいだの措置であった短期大学を恒久的な制度としたこと(1964),学校教育法第1条に定める学校以外の教育施設として,職業または実際生活に必要な能力を育成し,または教養の向上をはかることを目的とする専修学校の制度が設けられたこと(1975)である。 学校教育の制度は上記のように時代とともに拡充・整備がはかられてきたのであるが,その普及の状況もまた注目すべきものがある。小学校への就学率は学制領布の翌1873年には28.1%であったものが,1879年に41.2%と上昇し,1891年には50.3%と,50%を超えるようになった。その後も上昇をつづけ,小学校4年の義務教育が確立された明治33年には81.5%,義務教育の期間が6年に延長された1908年には97.1%ときわめて高い水準に達している。この間女児の就学率は明治6年には15.1%,1891年には32.2%と全国的平均を大きく下回っていた。この傾向はしばらくつづくが,1900年に前年の59.0%から大幅に上回る71.7%となってから,1908年には男児とほぼ同率の96.9%に達している。1983年度現在,義務教育段階の小学校(特殊教育諸学校の小学部を含む。中学校の場合も同じ)および中学校の就学率はいずれも99.99%となっており,ほぼ全員が就学している。次に中等教育(1947年以前は旧制中学校・高等女学校・実業学校(甲)・師範学校(1部),1948年以後は新制高校・高等専門学校)への進学率は,中学校令が公布された1900年には8.6%,1910年には12.3%,1920年には15.8%と着実に伸びてきた。昭和に入り15年には25.0%と四人に一人の割合で進学するようになり,つづいて戦後の1950年には42.5%に上昇している。1955年には51.5%と初めて50%台に乗せ,以後1965年には70.7%,昭和50年には91.9%と10年ごとにほぼ20%ずつの上昇を示すようになった。1983年度現在94.0%となっているが,このような高い進学率は一方で,高等学校の入学者選抜・教育内容・指導方法のあり方などに多くの問題を投げかけることにもなっている。この進学率を先進諸国と比べてみると,アメリカ94.7%(1979),イギリス(イングランド)27.6%(1979),フランス73.2%(1979),西ドイツ48.4%(1979)となっており,アメリカとほぼ同率,他の3カ国のいずれよりも大幅に上回っている。また,高等教育への進学率はわが国では1984年現在36.1%となっており,アメリカ45.5〜50.7%(1981),イギリス22.1%(1977),フランス26.4%(1980),西ドイツ19.4%(1979)と比べると,高等教育についてもアメリカを除く3カ国よりもかなり上回っている。なお,幼稚園への就園率(5歳児)は1982年現在64.0%で,保育所に在所する者も含めるとおよそ92〜93%に達している。
【教育内容】意図的な教育を行う機関としての学校にとって,教育内容をどのように構成するかということは中心的な問題となる。古代ローマの修辞学校には,文法・修辞・論理学・算術・幾何・天文・音楽などの教科が設けられ,それが中世の宗教学校で長く支配的地位を占めた自由七科(seven liveral arts)に発展した。このような伝統の上にできあがった近世の学校においては,初等教育では宗教・言語・算術が,中等教育ではそれらの上に,修辞・文法・幾何などが加わって基本的な教科となっていた。18,19世紀の諸科学の発達・工業社会の発展などの諸要因は,中世および近世の教育内容編成に大きな変化をみせた。中等教育ではギリシア語・ラテン語のような古典語のほかに近代外国語が加わったほか,理科・地理・歴史などが教科として取り入れられた。また近代国家の成立・発展に伴い初等教育は重要な地位を占め,従来の読・書・算のいわゆる用具教科といわれるもののほかに,理科・地理・歴史といった内容教科といわれるものが導入され,その後さらに,図画・唱歌・体操などの技能教科といわれるものが加えられるようになった。このように用具教科によって行われていた学校教育に内容教科と技能教科が加わって,教育課程はその内容を著しく拡充することとなった。教科の種類や内容が膨張するにつれ,これらを児童生徒の心身発達の段階に即応させて整理するとともに各教科間の有機的関連をはかり,ある種の狙いをもって内容上の統一を与える方策として生まれたのが教科の統合である。19世紀のドイツには地理・歴史・理科などの内容を郷土科(Heimat kunde)に統合し,直観科(AnschauunGs-kunde)を設けて教科の初歩教授をここから開始しようとする考え方があり,20世紀に入ってからは合科教育(Gesammtunterricht)などの試みが提案されている。アメリカでは,経験主義的なプラグマティズムの立場をとるデューイ(J.DeweY1858〜1917)が,教育内容として系統的な知識よりは児童生徒に豊かな経験を与え,そのなかで問題解決能力をつけさせることを主張したが,この主張はアメリカの実際の教育課程改造に大きな影響を与え,デューイ以後も多様な教育課程改造運動が展開され,教科の相関(correlation)・融合(fusion)・広領域(broadfields)・コア(core)・経験(experience)カリキュラムなどのさまざまな構成様式が現れた。わが国においてはどうであったか。以下,この点についてみることとする。まず,最初に1872年(明治5)の小学教則にによれば,たとえば6歳から9歳までの下等小学においては,綴字(カナズカヒ)・単語読方(コトバノヨミカタ)・単語諳誦(コトバノソラヨミ)を6歳で,習字(テナラヒ〕・洋法算術(ヨウホウサンヨウ)を6歳から9歳まで授けることとしていた。このほか,修身口授(ギョウギノサトシ,6,7歳)・会話読方(6.5〜7歳)・読本読方・単語書取(いずれも7歳)・地理読方・地理学輪講(7.5〜9歳)・究理学輪講(8.5歳,9歳)なども授けることとしていた。この小学教則には教科目のほかに,時間配当・教科書・授業の要点などを明らかにしていたが,当時の小学校の多くは新しい教科目を十分に理解して教材を編成することは困難であったために,旧来の読・書・算を授けるにすぎなかった。1881年に公布された「小学校教則綱領」は,学制当時の教則を根本から改めたもので,実施できる形で近代教科目を定め,学科課程の基本となる事項を初めて公に示したものである。この教則では,小学校を初等科3年・中等科3年・高等科2年とし,それぞれの段階をもとにした科目と教授内容を規定している。すなわち初等科では,修身のほかに読書・習字・算術・体操・唱歌(教授法などが整ってから設けること)を科目とした。中等料では初等科の科目のほかに,地理・歴史・図画・博物・物理・裁縫などを加えることとした。また高等科は中等科の科目に加え,化学・生理・幾何・経済(女子は家事経済)を授けることとしていた。その後,これらは小学校の教科目と教育内容を編成する基本となった。1917年(大正6)12月,臨時教育審議会は「小学教育ニ関シ,改善ヲ施スヘキモ,ナキカ若シ之アリトセハ其ノ要点及方法如何」という諮問に対し,第2回答申を行った。同答申の第1項は,小学校教育の根本方針に関するものであって,[1]小学校教育においては国民道徳の徹底を期し,児童の道徳的信念を鞏固にし,ことに帝国臣民たるの根基を養うにいっそうの力を用うべきこと,[2]児童身体の健全な発達をはかるため適切な方法を講ずること,[3]知識・技能の教授において児童の理解と応用を主とし,不必要な記憶によって心力を徒費する弊風を一掃すること,などの方針を示している。この答申によれば,教科課程の改善の方策は,教育内容の構成を根本から改めることを要望するものではなく,従来の基本方針を承認して,その取り扱いに関する改善事項を掲げ,これを拡充する方針であり,教科の構成とその内容に関する根本的な吟味およびそれにもとづく再編成は,1937年(昭和12)の教育審議会において行われるまでは行われなかった。この教育審議会は,1937年の日華事変後におけるわが国の諸要請を教育の上に大きく反映させたもので,教育の内容面からみると,皇国民を育成する教育の精神を教科構成の面から実現する狙いで,従来のものとは大きく異なったものとした。すなわち,教育を全般にわたって皇国の道に帰一させ,その修練を重んじ,各教科の分離を避けて知識の統合をはかり,その具体に努めること,また訓練を重んじるとともに,教授の振作・体位の向上,情操の醇化に力を用い,大国民を造るに努めることという趣旨に従って,これを縦に統合することとし,その教科を国民科・理数科・体練科・芸能科とした(高等科は,このほかに実業科)。またこれらの教科は,それらが含む多種多様な内容をその性質や目的に応じて組織し,全体として教科の目的を達成するための科目に分けられていた。すなわち,国民科は修身・国語・国史・地理,理数科は算数と理科,体練科は体操と武道,芸能科は音楽・習字・図画・工作・裁縫(女)の各科目で構成されるものとした。このように従前の教科制に対し,教科科目制をとることとしたものであるが,これは,教科科目制をとることによって,教育の内容およびその取り扱いについて,その全一的統合を意図したもので,各教科ならびに科目はその特色を発揮させるとともに,相互の関連を緊密にすることとされていた。国民学校における教育の狙いは皇国民の練成ということで,戦時下における諸要請に応えるものとなっていたが,教育内容や教育方法のなかには,大正新教育の影響を受けたと思われるものもあるし,戦後の新教育に連なるものもある。教育方法の面では,[1]教授・訓育・養護の3領域を一体化した教育の実施,[2]各教科間の分離を避け関連をはかること,[3]教育の生活化・実際化,[4]児童の自発性や興味・欲求などの尊重などがそれである。また教育内容面では,初等科第1学年では全部,または一部の教科の綜合教授を行うことが認められ,初等科第4学年における郷土の視察や第1学年から課された自然の観察にそれがみられる。これらには,子どもや地域の生活暦を軸にした教材を通して学習させること,自然に親しませながら科学する心を育てようとすることなど,書物から知識を学ぶのではなく事物そのものから学ぶべきである,という近代科学の精神がうかがわれるといえよう。第二次世界大戦直後の小学校の教科構成は,国語・社会・算数・理科・音楽・図画工作・家庭・体育および自由研究となった。従来の修身・国史・地理の3科目は授業を停止させられ,新しく社会・家庭・自由研究が登場した。なかでも社会科の誕生は,教育内容・方法の改革と関連してとくに注目すべきものであり,戦後の新教育課程は社会科を中心に推進されたということができ,その意味で社会料は戦後教育の長短・功罪を論ずる際の象徴的存在となっている。戦後,義務教育として位置づけられた新制中学校の教科構成は,必修教科と選択教科に大別され,前者は国語・社会・数学・理科・音楽・図画工作・体育および職業を基準とし,後者は外国語・習字・職業および自由研究を基準とするとされた。その後「自由研究」を「教科外の活動」「特別教育活動および学校行事等」「特別活動」とその内容を整理・発展させたり,1958年(昭和33)に「道徳」の時間が特設されたりした以外は,基本的に大きな変更はなく今日にいたっている。現行の教科などの構成は,小学校は国語・社会・算数・理科・音楽・図画工作・家庭・体育の8教科と道徳・特別活動となっており,中学校は,必修教科・道徳・特別活動と全員が履修しなければならないものと選択教科に分かれ,必修教科は国語・社会・数学・理科・音楽・美術・保健体育および技術・家庭からなり,選択教科は外国語・音楽・美術・保健体育・技術・家庭などとなっている。
【学校教育改革の動向】近年,各国における中等教育制度改革の傾向として,多種類の中等学校あるいは同一学校内にある各種の課程を,しだいに総合化しようとする動きがみられる。それは,前述のイギリス・西ドイツ・フランスなどにおける中等教育の総合化,あるいは柔軟化にもみられるところである。ソ連では最近,義務教育年齢の延長などを含む教育改革が行われている。すなわち,科学技術の進展に伴って過密状態に陥ったカリキュラムにゆとりをもたせるために義務教育期間を10年から11年に延長し,しかも,若年労働者の確保という社会的要請に沿うように行われたので就学期間を後に伸ばすということではなく,就学年齢を7歳から6歳に引き下げるという方法で行ったものである。わが国では,1971年に中央教育審議会が,人間の発達過程に応じた学校体系の開発という観点から,4,5歳児から小学校低学年の児童までを同じ教育機関で一貫した教育を行うこと,中・高を一貫した学校として教育を行うこと,小・中・高のくぎり方を変えて教育を行うこと,などについて先導的試行を行うことを答申している。この学校体系にかかわる先導的試行は,諸種の事情により実施されないできているが,近年また,幼保一元・中高一貫学校など学校体系にかかわる論議がさまざまな観点からなされている。このような学校体系の変革や義務教育年限の延長によって,教育の効果を高めようとする動きがある反面,学校教育とくに義務教育についての疑問がいくつか出されている。すなわち,義務教育にみられる画一化・硬直化の傾向に対するもので,一律に就学を強制することについての疑義から,場合によっては就学を強制しない柔軟なものにすべきであるとか,情報化社会の進展,生涯教育の普及などの社会の変北のなかでは,義務教育の役割を縮小すべきであるということであったりする。また親や学習者は,学校や教師を一方的に与えられるのではなく,自由に選択できるようにすべきであるという主張,さらには,近代公教育に対する不信ないし否定の上に立つ脱学校論などもみられる。学校教育の画一化・硬直化の傾向に対して,別の角度から学校教育の改革を試みようとするものがみられる。効果的な指導方法は何か,どのようなカリキュラムがよいか,どのような学校組織がとられるべきか,学校施設はどうあるべきかなど,学習指導の面からアプローチしようとするもので,無学年制・ティームティーチング・オープンスクールなどの新しい学習活動の推進がそれである。学校教育の普及・拡大・弾力化・自由化とともに,教育の質の維持・水準の向上への要請も強まってきている。1984年1月,イギリスで打ち出された義務教育期間における教育課程の基準を高めるという方針や,それより早く現れていたアメリカにおける「基礎に帰れ」の運動はその典型例であろう。教育における「基礎」をどう考えるかという問題はあるにせよ,教育の「基礎の重視」をめぐる論議は,教育の質・水準をどう考えるかという視点から,新しい教育課題を提供しているといえよう。学校教育と家庭・社会とのかかわりもまた,学校教育のあり方を論ずる際のポイントになっている。近年の家庭や社会の教育機能の減退がいわれるなかでの学校教育のあり方,今後いっそうの情報化や国際化の進展と,後期中等教育や高等教育の拡充のなかでの学校教育のあり方など,変化する社会のなかでの学校教育の役割をどう構想していくかということも,今後の大きな課題といえよう。〔参考文献〕細谷俊夫編『学校教育の基本問題』1973,評論社
文部省編『学制80年史』1954
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