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●刀狩 かたながり

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 諸国の農民が武器をもつことを禁止し,領主がそれを没収する政策をいう。制度化されたものとしては豊臣秀吉の「刀狩令」が名高いが,その端緒は織田政権下においてすでにみられる。信長および秀吉の天下統一過程において,一向一揆のような百姓の組織的な抵抗をはじめ,村落上層の農民たちが武装していることが,統一推進の障害となり,信長・秀吉は,早くから農民たちの武装解除の方向に進んでいた。しかし,全国的規模で刀狩が実施されるようになったのは秀吉の段階までまたなければならなかったのである。秀吉は,1585年(天正13)ごろから,高野山金剛峯寺や大和多武峯(とうのみね)衆徒らに命じて,所持する武器の供出をさせているが,やはり決定的なのは1588年(天正16)7月8日に出された「刀狩令」である。その書き出しは,〈諸国百姓,刀・脇指・弓・やり・てっぱう,其外武具のたぐひ所持候事,堅御停止候〉とあり,農民から,刀や槍や弓,さらに鉄砲などの武器を没収する政策を全国的なものとした。この「刀狩令」が出されるにいたった背景としては,前年蜂起した肥後の検地反対一揆が諸大名の応援によって鎮圧されており,秀吉は,その肥後の一揆に刀・槍などの武器をもった農民が多数加わっていたことをとくに重視しこのような「刀狩令」の発布に踏みきったという解釈が有力である。なお,刀狩の表向きの理由を,さきの「刀狩令」第2条では,大仏建立の釘・かすがいにするので,百姓の末世までの供養になるといって,大仏建立の釘やかすがいに用いるためと説明しているが,当時ですら,すでに興福寺の多聞院英俊に〈内証は一揆を停止するためなり〉と見ぬかれていたように,農民の武力的低抗・反抗を未然に防ごうとするものであったことが明らかである。また,没収するとき,刀は鞘をつけたまま京都に送ることが命ぜられており,この点から考えると,刀狩で没収された刀は,朝鮮出兵のための武器調達を目的としたものだったという考え方も成り立つ。なお,「刀狩令」第3条では,百姓は耕作さえ専念すれば,国土安全・万民快楽だとし,百姓は農業一本にすべきことを命じている。全国的にどのくらいの刀や弓・槍・鉄砲が秀吉のもとに集まったかというデータは残念ながら残されておらず,その全貌をつかむことはできない。しかし,たとえば,「刀狩令」の出された翌月,すでに溝口秀勝の領国であった加賀の一郡から,1,073本の刀,1,540本の脇差,160本の槍が没収されていることを示す資料があり,全国的にみれば,かなりの数量に及んだということは容易に推察される。ところで,刀狩による農民の武装解除は,ただ農民たちの一揆防止というレべルの問題ではなかった。農民を従順な年貢負担者の地位に押しこめるという意図をもっていたのである。刀狩が検地と並行して遂行されていった理由もそこにあるわけであるが,武士・農民の身分固定を狙ったものであることは明らかである。刀狩による武士・農民の身分固定政策は,当然のことながら,兵農分離の方向に進む。秀吉の場合,のち1592年(文禄1)「六十六カ国人掃令」というものを発布し,全国的な戸口調査を行い,身分別・村別の家数・人数を掌握しており,それまでのような農民から武士への移動は不可能となり,ますます身分が固定化していくことになり,兵農分離はさらに遂行されていったのである。その場合,苗字をもつことと,刀をもつことが,武士身分の表象とされ,さきに行った刀狩の結果が,武士身分と農民身分とを区別する一つの大きな指標とされたわけである。こうして,戦国期に一般的にみられた下剋上という現象は,その根もとを断ち切られた形となり,農民は年貢負担者とされ,近世的な“農は納なり”という石高制原理が形づくられていったのである。その意味において,刀狩の果たした歴史的意義は大きなものがあったということができる。