●カタコーム
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カタコンべの複数形。ユダヤ教徒およびキリスト教徒の地下室墓の総称。カタコンべの名称は軍道として有名なアッピア街道に沿って立っている聖セバスティアーノ教会の地下室墓から由来し,今日ローマの近郊にユダヤ教徒のカタコンべが6カ所,キリスト教徒のカタコンべが36あるといわれている。【分布】地下室墓はローマ社会に特有のものではなく,すでにユダヤ教徒がパレスチナの故国において死者を岩穴に葬る慣習をもち,ユダヤ教徒のディアスポラとともに,この慣習は地中海沿岸の各地に伝播され,ローマにおいてはすでに2世紀ごろに現れ,シチリアのシラクサ・イタリアのナポリ・フランスのマルセイユなどにもみられる。ローマでは5世紀ごろまでカタコンベが使用されていたが,410年以降利用されなくなった,と思われる。ローマにおけるカタコンベはローマを中心にしで放射状にできたローマ時代の諸街道に沿って発達したが,ローマ近郊の土質は黒く柔かい石灰岩質であったため,掘削に適し,地下所有者の境界に達したときにはさらに深く掘り下げられた。ローマにおけるキリスト教徒のカタコンベのうち最もよく知られるものとして聖プリスキラ・聖カリクストゥス・聖ドミティラ・聖セバスティアヌスをあげることができよう。
【意味】ローマにおけるキリスト教徒の古いカタコンベは,200年ごろ教皇ゼピュリヌスが助祭長カリタストゥスにキリスト教徒の地下室墓を組織させたもので,今日聖カリクストゥスのカタコンベと呼ばれているものである。しかしこのことはローマ近郊において聖カリクストゥスによってはじめて地下室墓が掘り込まれたことを意味せず,地下室墓そのものは異教徒に属するものもあり,すでに古くより存在したが,カタコンベが直接ローマ教会の管理下に置かれたのは教皇ゼピュリヌスからである。たとえば聖カリクストゥスの地下室墓を例としてみると,このカタコンベはルキナなどの地下室墓・聖カリクストゥスの墓地・聖ソテリスの墓地の三つの部分からなっていた。最初はそれぞれ別々につくられたと考えられるが,場所が狭くなったため統一され,聖カリクストゥスのカタコンベと総称されるにいたったのである。カタコンベにおける墓には三つの型があった。第1は地下室墓と呼ばれるもので,多少とも計画において統一性があり,大きく,比較的裕福な家柄の人たちのための墓であった。第2はロクルス(小穴)と呼ばれるものである。このロクルスは坑道の両側の壁に掘り込まれ,貧しい人々の遺体が安置され,壁面に幾層かの列がつくられた。遺体の人ったロクルスは普通,石板か大理石によって封印され,そこに死者の名前や宗教的な象徴の図柄が描かれ,貨幣やガラス・ランプ・フラスコなど若干の副葬品も納められていた。第3の墓はクビクルムと呼ばれるもので,ラテン語の小室から由来する。これはロクルスに葬られた人々より裕福な人々のためのものである。ルキナの地下室墓は皇帝トレボニアヌス=ガルス(在位251〜253)によって迫害された教皇コルネリウス(在位251〜253)がチヴィタ ヴェッキアに流刑され,その地に没し,その遺体がルキナと呼ばれる婦人によってローマに葬られたものである。しかし聖カリクストゥスのカタコンベのうち最も重要な地下室墓は「教皇の地下室墓」で,3世紀の教皇や司教の遺体が葬られている。現在9人の教皇と3人の司教の名前を確認することができる。そのほか聖ケキリア,サクラメント(秘蹟),教皇エウセビウス(在位309/310)などの地下室墓が存在する。
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