●家族 かぞく
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家族とは,[1]血縁によって結合し,生活を一緒にする人々であって,婚姻に基礎を置いて成立する,社会を構成している一つの単位をいう。または,[2]大日本帝国憲法下などにおける,いわゆる従来の“家”という古い制度のもとで,戸主が統率していた家の構成員を称して家族という。すなわち,原則として,戸主の親族であって,その家を構成している者,およびその配偶者を家族といっている。家族が,血縁的な集団として,その代表的な存在であるに対して,地縁的な集団として主要なものは,国家および都市ならびに村落などが存在する。したがって,家族が成り立つ基盤は,血縁と婚姻の二つの要素であり,きわめて人間性と深いかかわりあいをもっているといえる。家族のほかの血縁集団としては,氏族が存在している。1929年(昭和4)に東大教授となった昭和期の社会学者だった戸田貞三は,アメリカのシカゴ学派の影響を受け,家族を統計的方法により分析し,社会集団としての家族の研究をすすめたことで,よく知られているが,家族について次のように述べている。すなわち,〈家族は,夫婦,親子ならびにその近親者が,血縁的な愛情をもって人格的に結びつき,この感情的融合にもとづいて家計をともにしている集団である〉。【日本の家族の歴史】日本の家族の,原始社会における形態は,よくわからないが平地式または竪穴式の住居の跡から勝手に想像すると,原始社会の家族は多分五,六人ほどで,火のたける炉を真中にして生活しており.このような家族が適当に集まって防衛および生産の活動に,集団的に参加していたと想像される。太陽・聖火崇拝が行われていた未開上古の時代においては,火を守ったり発火法を知ったりしている人は,部族の長となった。母系制の家族は,水稲の耕作を行う金石併用時代(前2〜前1世紀)になってもつづいたと思われるが,家族に相当する集団は,この時代になっても,まだ生活が完全に独立することができず,生産物も“むら”が共同所有していたが,生産力が拡大すると,家族は“むら”から独立し,これとともに,夫婦の生活も別居制から夫婦同居制へと推移していった。
律令の官制は,〈若父死,母子見存者,以男為父,又有伯叔兄数人,猶以嫡子戸主也〉(「戸令注」)というように述べていて,まさに画一的とも呼ぶべき嫡子主義をとっていたのである。それは,いわゆる有位者についての規定であることを,われわれは忘れてはならないし,これに反して,無位の庶人に関しては,もちろんのことではあるが,とくに継承すべき位階などは存在しなかったし,また嫡子もなかったのである。財産における相続に関しても,嫡子の特別な相続財産としては,家および家人ならびに奴婢などがあり,有位者のあいだにおいては,いわゆる嫡庶異分主義が実際に行われていた。しかしながら,一般人の場合においては,有位者の嫡庶異分主義とは,違うやり方であって,すなわち均分主義が,ふつうは,広く行われていた。
このようにして,日本の古代史においては,古代の大家族間の権力闘争が,わりあいに多くみられだが,これらの時間が移り過ぎていくあいだに,下づみの階層である家人や奴婢などとして,毎日肉体労働に従事している人たちは,やがて,生産物および余剰の労働力を,いろいろな形においてたくわえ,すなわち原始的なたくわえからスタートして,そのうちには,自営農的な芽ばえから自営農の方向へと進んでいった。これまでの奴隷制的な屯倉(みやけ)および田荘(たどころ)の代わりとして,これらの人々の,土地占有的な自営農による荘園制が誕生し,ついに養老令においては,これまでの有位の人はもちろんのことであるが,これら庶人についてまで,嫡子を認め,さきに述べた戸令応分条の規定を適用することになったのである。族団的な結合が盛んとなり,武士が台頭すると.家督相続が行われるようになった。これら族団を一門・一族・一類などという。族団の統率者を,家門の統梁とか家督と呼んだ。分割相続が財産について行われてきたが,所領を子供たちに分割しながらも,全所領を嫡子に知行させる惣領制が発生し,鎌倉暮府が創立されてから,この惣領制は広く普及していった。
平安時代および鎌倉時代において,長子の単独相続は,もちろん見られなかったが,しかしながら,少なくとも,嫡子はほかの子供たちよりも,なんといっても所領をたくさん相続している。しかし,このようにして,いわゆる惣領制の威力をもってしても,家領の減少していくのを,実質的に防止することはできなかったのである。鎌倉時代の末ごろには〈雖可相分庶子等,分限狭少之間,於令相分者,依不可逢上之御大事,護渡通時一人者也,雖為後々末代,於長快跡者,子孫之中以一人可令相続之〉(「山内長快譲状」1330年・元徳2)というように,所領の相続を一人に絞るというような実例も現れてきて,家領の減少することを,なんとかして防ごうとしていることが明白にわかる。荻生徂徠(おぎゆうそらい)は〈妾と言者は無くて叶わざる物也……子なければ妾をおくこと通法也〉(「政談」)と家産制と家父長制の絶対的性格の強さを示している。江戸時代における,町人家族が持っていた“家”の観念は,もちろん武家の場合とは,だいぶちがっていた。すなわち,町人家族における家という観念のなかには,分家および別家の親族はもちろん,さらに“のれん分け”した番頭の家族までも含まれていて,このような番頭の“出店”に対しては,主家に隷属するとともに,商品の仕入れまで主家に隷従するよう求めている。
これまで述べてきた武士における家族および町人における家族とは多少の点で似通っているように,農民の家族においても,やはり家父長権の,ほとんど絶対的といえるほど強大で堅固な存在がみられる。その最も極端な一例をあげると,農民家族の家父長が,妻子を売買することも公然と認められていたという,驚くべき事実も,江戸時代には行われていた。1868年(慶応4)明治維新ののち,さしも強固であった家父長的・封建的な家族制度も徐々に崩壊しはじめるが,結局,半封建的な部分を残存した奇形的な家族制度の形をとり,農村においては,典型的な個人主義的家族形態を,この時はとることができなかった。農民のほかの家族生活の場合においても,ほとんど同じようなことが,明治維新以降,だいたい第二次世界大戦敗戦前まで,行われてきたといえる。
また徒弟制度は,契約関係は形式的にはなっていたが,短くて4,5年,長ければ10年間も,主人は家父長的で,親権者と同じように,教育および懲戒ならびに監護などの権を行使することができた。徒弟契約の一例。〈何年ヨリ何年マデ何年間貴殿ノ弟子ニ相願候ニ就テハ,右年期間逃亡又ハ不行跡等有之節ハ身元引受人ニ於テ直チニ御損害ヲ弁償致シ,一切御迷惑御掛間敷尚病氣ノ際ハ御通知次第早速引取可申且ツ御見込無之時ハ何時御差戻相成候トモ決シテ苦情等申出間敷依テ証書如件〉のような形式の文書を主人に渡した。そしてさらに,いわゆるお礼奉公の年限をさだめ,これとは反対に,徒弟に対して,主人が損害を与えたときのことは,全然書かれていないという,まことに一方的で片務的な契約であった。明治政府においては.このような不合理で一方的で半封建的な家族関係を,意識的に,法制的な強化をおし進めることに努めた。この傾向は,すでに1871年(明治4)における太政官制の制定当時からみられるが,さらにボワソナードが起草した民法案が,あまりにも自由主義的でありすぎるという理由から,これの施行を延期したうえ,1898年(明治31)に戸主権強化の家族制度を規定した民法が実施されることになった。親権において,第1の享有者は父であって,母が親権を行うことができるのは,〈父ガ知レザルトキ,死亡シタルトキ,家ヲ去リタルトキ,又は親権ヲ行フコト能ハザルトキ〉に限定され,未成年の子は相続財産の管理についてもかなりの制限を受けていた。そして婚姻にさいしても,一定の年齢までは父母の同意がやはり必要であった。男子が専権的であることは,夫婦関係においても同様であった。そして成年の能力者である婦人も,ひとたび結婚すると,法律的には再び無能力者という扱いを受けることとなった。しかもこれに加えて,財産の管理共通制すなわち,夫が妻のすべての財産を管理するという不合理な制度が組み合わされていた。
第二次世界大戦が終わってから,農村においては農地改革が実行され,民法も改正され,労働法規も制定された。しかし農地解放後になっても,農村の封建制は,やはり残存している。民法改正で,法律上における家は消滅し,戸主も家督相続もなくなり,初めて近代的な家族が生活できるように変化していった。しかし日本の家族には均分主義や核家族などの問題が残されている。