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●河川交通 かせんこうつう

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 河川を経路として,舟を利用して人や物資を移動させることをいい,河川舟運とも呼ばれる。どの時代においても舟運をみる場合には,[1]通運の主体者(漕ぎ手・船頭・舟主),[2]通運の客体(人や物資など),[3]通運経路(本項では河川を扱っているが,海や湖沼などもある),[4]通運に関する制度,[5]通運のための技術,について考えることが大切である。古代においては,いまだ商品経済も発達していなかったことや,急流で川幅の狭い日本の河川の特色に対応した技術が伴っていなかったことがあげられる。そのため,ごく限られた河川だけが舟運に利用されていた。淀川は,京都から大阪湾への交通に利用されていたが,同時にまた,瀬戸内海の舟運とも直結しており,古代における舟運交通の幹線としての位置づけをされている。そのほかの河川では,小舟による荘園の年貢米を河口までおろしたり,高梁川(岡山県)のように上流域で産出される鉄鉱石を運び出すために舟路が開削されたりした例がある。また,都京への往来をする人々が多い主要な街道では,固定された大橋の架橋ができないため,渡し舟による交通が行われるようになった。河川は交通の障害としての存在であった。中世になっても,全国的には上のように河川の交通は同じような傾向であった。室町時代には,陸上の主要な街道に関所が数多く設けられたが,淀川などの舟運が盛んな河川には関所が数多く設けられ,それぞれの関所で多種多様な関銭が課された。1462年(寛正3)の関所数は,実に380を数えるが,これとても幕府および守護領国による働きかけで減少したほうだということから,関所の数の多いことを推しはかることができる。淀川のように交通量の多い河川には,関所も集中し,通運の主体者である舟方はもちろん,物資の通運を依頼する商人に対しても深刻な影響をもっていた。たび重なる関銭や輸送料の高騰化は商品価格をさらに高騰させたり,商業活動を鈍らせて,京都などの都市に住む下層民の生活を圧迫するようになった。山崎の油商人のように,ごく一部の商人は胡麻船の自由通行の特権を認められるような例もあったが,大半は悪化の方向をたどっていった。このため,商人や土一揆を通じて,関所撤廃の要求が訴えられたが,非力となった幕政では,どうすることもできなかったのである。各地に戦国大名が覇を競う時代になって,領国内の関所廃止が行われるようになった。とくに,織田信長は関所廃止政策を推進し,河川舟運の発展を促した。江戸時代には,江戸・大坂を中心とした幕藩体制と中央集権化が極度に実施されるようになり,藩の年貢米はもちろん藩財政を潤すための藩内の生産活動が奨励されると,米をはじめ諸物資の流通が飛躍的に発展しはじめた。政治の中心である江戸と,“天下の台所”として物資の一大集散地となった大坂には,全国から商品化される物資が集められ,これが京都・大坂・江戸などの大都市や各地の城下町に運ばれていった。これに応じて商人の活動も活発となり,大量の物資を運ぶのに適した舟運が発展した。河川の舟運は,回船として発展した海運と連携し,淀川だけでなく北上川・最上川・阿武隈川・富士川・天龍川など全国の主要河川で,舟運のための開発が行われた。物資の輸送とともに,旅人たちも渡しによる交通だけでなく,上流から下流への移動に舟を利用したりすることも多くなった。江戸周辺では,利根川が江戸に直結するような堀割川の開発も行われた。近代になると.鉄道や自動車の輪送が強化されて,河川交通は,港湾口に通じた地点で行われるにすぎなくなった。これも,沿岸の理め立てが進められたことにより,その使命を終えた感もある。わずかに観光としての交通が余命を保っているにすぎない実情にある。

〔参考文献〕横山昭男「近世河川水運史の研究」

大矢誠一『運ぶ−−物流日本史』

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