50音順    検 索

●カストロ

北アメリカ キューバ共和国 AD1926 

 1926〜 キューバの政治家。1926年8月13日キューバのオリエンテ州ビランで農場主アンヘル=カストロとその2番目の妻リナ=ルス=ゴンサレスの間に生まれた。学校教師だった先妻はペドロ=エミリオとリディアを生み,リナはラモン・フィデル・ホアナ・エンマ・ラウルを生んだ。このうち長兄ペドロ=エミリオと末弟ラウルはフィデルとともに政治家となる。父アンヘル=カストロはガリシア出身のスペイン陸軍の兵士で1898年キューバに来た。軍役解除後はキューバに残りユナイティッド=フルーツ社に勤務。1920年それまでに手に入れていた土地を軍事基地用に売却して財を築いた。フィデルとラウルはサンチャゴ=デ=クーバのイエズス会のラサール学院,ついでドロレス学院で初等教育を受けた。1942年ハバナのイエズス会のベレン学院で中等教育を受けた。1945年ハバナ大学法学部に入学。まもなく政治活動に目ざめる。1947年大学2年生の彼はドミニカ共和国のトルヒーヨ打倒のための侵入作戦に参加して失敗。1948年4月コロンビアのボコタで米州会議が開催されたとき,それを妨害するため反植民地主義反帝国主義学生大会が企画され,フィデルも加わっていた。学生たちが招待していた自由党の指導者ガイタンが暗殺されて暴動になったが,保守党と自由党の妥協が成立して学生たちの企図は挫折,カストロはキューバに逃げ帰った。同年10月大学の同級生ミルタ=ディアス=バラルトと結婚,翌年9月息子フィデリト誕生。1950年弁護士の資格を取得し,二人の弁護士と共同で法律事務所を開設したが,当時のカストロは貧しい人の事件ばかり取り上げ,収入にならなかったといわれる。このころ,カストロはエドゥアルド=チバスの率いるオルトドクソ党に参加。1951年6月1日に予定されていた選挙にカストロは国会議員に立候補する準備をしていたが5月10日にバチスタによるクーデターがおこり,水泡に帰した。反バチスタの運動を行っていたカストロは同志200人とサンチャゴ=デ=クーバのモンカダ兵営を1953年7月26日襲撃するが失敗して逮捕される。9月21日サンチャゴで裁判を受け15年の刑の判決を受ける。その裁判でカストロは「歴史は私に無罪を宣するだろう」と述べたといわれる。同10月ピノス島に移送される。このころからカストロと妻ミルタの関係が悪化する。ミルタの兄はバチスタの友人だったのも一因である。1955年特赦で出獄,メキシコに亡命する。そこでアルゼンチン人チエ=ゲバラ,スペイン人アルベルト=バヨらと知り合う。バヨがゲリラ訓練を担当,カストロがアメリカ合衆国をまわって亡命者たちから資金を集めた。オルトドクソ党が分裂,カストロたち武装蜂起を唯一可能な手段とする人たちで「7月26日運動」を結成。再三にわたりメキシコ警察に武器をとり上げられる。1956年11月グランマ号という10人用のヨットに82人が乗り込んでキューバ侵入の途についた。12月2日ベリクに上陸,政府軍の襲撃にあいながらもシエラ=マエストラに逃げ込み,生き残ったのは12人だけになった。カストロはグアヒロと呼ばれる地方民を味方につけバチスタ政権との戦いをつづける。1957年ウベロの守備隊を攻撃。同年7月12日カストロはキューバ上陸後はじめて国民に向かって宣言を発表。1958年6月29日サンチャゴ=デ=クーバで1,000名のバチスタ軍を破る。7月20日バチスタ打倒のためにキューバ社会のすべての党派の統一を呼びかける協定に調印。8月バチスタ側の反撃が始められ,戦闘はキューバ6州のうち4州にひろがった。12月28日モンカダ兵営司令官のカンティリョがバチスタ側からの休戦を申し出るが,カストロは拒絶。翌1959年1月1日バチスタドミニカ共和国へ向けて亡命,翌日カストロはサンチャゴ=デ=クーバを占領,バチスタ打倒を完遂した。その後,キューバ首相として長期の社会的・経済的変革を企ててきたが,財政的にますますソ連に依存するようになる。「第三世界」のリーダーになろうとする彼の努力は彼のソ連依存のためさえぎられた。

01