●カースト
アジア インド AD
インドにおける社会的身分制度。多くの場合差別的である。ポルトガル人がインドにこの制度をみてカスタ(Casta)と呼んだのが起源。インドではヴァルナ(色)とかジャーティー(生まれ)とかがこれに相当することばである。伝銃的なヒンドゥー教経典によると,神はバラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・スードラの四つのカーストを定め,各々のカーストはダルマ(法)により,カースト外の人々とともに食事すること,相互に結婚することを禁じている,とする。これがヴァルナである。たしかにヴァルナは後期ヴェーダ期にバラモンが理論化し,為政者たるクシャトリヤが支持したときにはある程度現実と一致していたと思われるが,現在ではヴァルナはサンスクリットの経典に記されている全インド的な,理論的なヒエラルキーとされ,現実には数千のカースト,およびカースト外の不可触民といわれる人々がいる。ともに食事することの禁や通婚の規則も時代や地域によって異なっている。したがってカーストは地方的な単位であり,ある程度職業と重なり,共通の儀社・習慣をもち,結婚と伴食に関するタブーを共有し,浄・不浄の原理でヒエラルキーを形成するグループといえる。【歴史】前期ヴェーダ時代に曖昧な形ですでにみいだされる。後期ヴェーダ時代には世襲的職業集団が存在した。ヴェーダを学び,宗教儀式をつかさどる人々がバラモンと呼ばれた。政治・軍事的行為に専念する為政者がクシャトリヤと呼ばれ,アーリヤ人の一般大衆はヴァイシャとされて,主として商業交易に携わっていたとされる。残りの奉仕にのみ生きる人々はスードラと呼ばれた。このヴァルナ制はマヌ法典でほぼ完成をみたと考えられる。しかしマウルヤ朝はスードラの王朝だったと考えられているし,また他方で,チャンドラグプタ時代にインドにやってきたギリシア人メガステネスは人々が七つのグループに分かれていることに気づいた。ただしこれは世襲的なカーストでなく,むしろ職業集団であるとした。カーストが流動的でなくなり,固定的になるのはインドにイスラーム教徒が到来して以後のこととされる。イスラーム教徒に抵抗できなかったヒンドゥー教徒はカースト制を強固に厳重にすることによって自らとヒンドゥーイズムを守った。ただ,逆にカーストを認めないイスラーム教の到来は下層カーストにとって革命的な救済であって多くの改宗を生んだとする見方もある。またカーストの流動性はイギリス到来以後失われたとする見方もある。その理由は,[1]イギリス支配以後は政治体制が流動性を失って固定化した,[2]それまでインド亜大陸には土地があまっていたから各地に移住が可能であったが,このころほぼ余剰地がなくなり移住開墾が不可能になった,の2点とされる。さらに,1880年以後はある種の選挙制が導入され,カースト組織による支持票の獲得が重要となったことや,1901年のセンサス以後はカーストを分類して記載したため,各カーストの有力者が自らのカーストを他のカーストより優位だと主張しはじめたり,カースト史を作成したり(時として偽造したり)するようになり,カースト意識やカースト団体組織が逆に強化された面もある。
【反カースト運動】19世紀後半からおこってくるインド民族運動のなかでカースト差別の解消は大問題となった。インド西部では19世紀前半のカースト打破・社会改革運動の流れを継承してプレーが1873年に心理採求者協会を設立し,非バラモンの教育・人間の平等・反バラモン主義を主張した。しかし不可触民の運動が盛んになるのはアンベードカル(1891〜1956)の登場以降である。ヌハールという不可触カーストの子に生まれた彼は成績優秀なため,コロンビア大学で博士号をとったが本国では依然水も貰えぬほどの差別に苦しみ,1920年代から不可触民制・カースト制撤廃運動をはじめた。1927年には不可触民の集会でカースト差別を説くとしてマヌ法典を焼き,不可触民の政治権利を守るため不可触民のみが不可触民を選ぶ分離選挙を要求した。イギリスが1932年に一部この要求をいれたコミュナル裁定を提出したため,ガンディーは死に到る断食によってこれを阻止し結局不可触民のための特別議席を保留されたにとどまった。独立後もヒンドゥーは彼らを同等に扱っていないとして1956年60万人といわれる人々とともにアンベードカルは仏教に改宗した。
〔参考文献〕山崎元一『インド社会と新仏教』1979,刀水書房