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●春日神杜 かすがじんじゃ

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 奈良市春日野町に鎮座。旧官幣大社。1946年(昭和21)宗教法人となり,春日大社と改称した。祭神は鹿島神宮の武甕槌命(たけみかずちのみこと)・香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)・枚岡神社の天児屋根命(あめのこやねのみこと)・同比売神(ひめがみ)の4座。古く四所明神と称せられ,春日権現春日大明神ともいう。鹿島・香取は藤原氏と因縁深く,枚岡はその祖神を祭る社。768年(神護景雲2)藤原氏の氏社として,春日御蓋(みかさ)山麓,もと春日の地主神を祭る社のあったところに創建され,同時に官祭にあずかった。平城廃都後,長岡京に大原野社(京春日という),平安京に吉田神社が分社として建てられたが,春日社は奈良にとどまり,藤原氏の勢威があがるにしたがって隆盛に赴いた。9世紀の中ごろ,その拡充がはかられるとともに,859年(貞観1)春日祭を2月と11月の両季に行うことになった。春日の神威を借りて勢力をひろげようとした興福寺は,春日社へ支配の手をひろげ,1135年(保廷1)に春日若宮社をおこして翌年からその祭札を主宰,春日社との一体化を実現した。末社や社領も興福寺の支配するところとなったが,藤原氏・興福寺とも春日明神の神威を仰いでその繁栄をはかったので,1178年(治承2)の式年造替にあたり,社容を一新,翌年に楼門形式の南門が建てられ,両側の瑞籬(みずがき)が回廊に改められた。12,13世紀に興福寺の大衆(僧兵)は春日大神の御正躰(みしょうたい,神鏡)を榊に移した神木を掲げて上洛,しばしば強訴を行った。鎌倉時代摂関家は,皇室の伊勢,武家の八幡に対して春日明神の宣揚につとめ,室町時代には,足利義満が1382年(永徳2)に全焼した春日社の再興を援助するなど,摂関家に代わって足利将軍家が外護した。江戸幕府も,秀吉から与えられた興福寺兼春日社領2万1,000石の朱印領を認めるなど,数々の保護を与えた。明治維新の神仏分離で興福寺の支配を離れ,1871年(明治4)官幣大社に列せられた。例祭(春日祭)は2月と11月の上申の日に行われて申(さる)祭と呼ばれ,賀茂・石清水と並ぶ3勅祭の一つ。明治以後は3月13日にとり行われることになった。しかし,現在12月17日に行われる摂社若宮神社の祭儀が,世に御祭(おんまつり)と呼ばれて春日社最大の祭礼になっている。社殿は春日造(切妻造,妻入の母屋=もやの正面に向拝=ごはいを付加した形成)の典型で,4棟が併立。現在の社殿は,1863年(文久3)造営のもの。明治以降修理が加えられているが,50数度の造替にかかわらずよく古式を伝えているという。なお,1,200基の釣灯籠と1,700基の石灯籠が著名。元旦と節分および大文字山焼きの夜に灯が入る(万灯籠)。

【春日信仰】藤原氏の氏神・氏社としての信仰に始まる。氏長者である摂関家の春日詣(かすがもうで)をはじめ,藤原氏一族の参詣が相次いだほか,一条天皇以来行幸・御幸は30余度に及んだ。後一条天皇の行幸にあたって大和添上郡の2郷が寄進され,関白頼通が同郡楊生の神戸4郷を寄せるなど,皇室や藤原氏一門などからの寄進によって社領が増大,荘園は全国に散在した。春日社兼興福寺領ないし摂関家兼春日社領として包括されていたが,荘園の鎮守として春日社が勧請され,全国にひろまった。初め鹿島神が主神とされていたが,平安末ごろから四所明神を一体化した春日明神の崇敬に代わった。伊勢・石清水とともに三社と呼ばれて殊遇を受け,室町中期には,神儒仏三教一致の思想に支えられて,正直(伊勢)・清浄(八幡)・慈悲(春日)の神徳を説く三社託宣が成立した。鎌倉時代以降,春日曼荼羅が盛んに描かれ,鎌倉時代末には,春日明神の霊験を物語った絵巻物『春日権現験記』(御物)もつくられた。室町時代には足利将軍の社参があり,郷村では春日講が盛んになった。室町後期には,源平藤橘の種姓を誇示する風がおこり,藤原姓の武将によって各地に春日杜が勧請されたが,上杉謙信が居城を春日山城と名づけたような例もある。徳川将軍家も三社信仰に篤く,三社託宣を授けるところがあった。なお現在1,000頭をこえる神鹿は,鹿島の神が春日へ遷座の折,乗ってきた白鹿が繁殖したものと伝え,平安後期から春日明神の使いとして神鹿の崇拝が強まり,春日曼荼羅に描かれるとともに鹿曼荼羅図も残されている。現在,神鹿保護会があって,毎年10月に鹿の角伐り行事が行われる。

〔参考文献〕大佛次郎・永島福太郎『奈良 春日野』1968,淡交社

花山院親忠監修・田中真知郎撮影『春日大社』1984,大阪書籍

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