●カシミール
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現在でもインドとパキスタン両国は,全面的領有権を主張している。現在は全領域の3分の1にあたる北西部をパキスタンが,残りの3分の2をインドが領有。インド側は,ジャンム=カシミール州で,パキスタンはアーザード=カシミールである。大ヒマラヤの南に雁行形をなす小ヒマラヤがあり,大小両ヒマラヤのあいだが,インド側の州都シュリーナガルのあるカシミール谷。二つの地方は国境地帯でもあり,多種多様な民族がいるが,インド・パキスタン・アフガニスタン最北部に,印欧語族のインド=イラン語派のダルディック支派の諸語を母国語とする民族を主とする。なかでもカシミール語が最も有力で,はかにインド=アーリア支派やチベット系民族がいる。歴史上はイラン支派も入ってきた。歴史的には,草創期は地方王朝のバラモン教徒であった。アショーカ王治世に,この地は王の領域内に入り,仏教が入ってきた。前3世紀のころである。カシミールが〈第一の坐禅の処〉(『阿育王経』第8巻)と呼ばれた。その後,風光明媚のなか,哲学と瞑想修業の地として有名であった。クシャーナ朝のカニシカ王のときに当地で『発智論』の註訳書『大毘婆沙論』200巻が編さんされる。のちに,世親ヴァスバンドゥ(320〜400)がカシミールに入り,この註訳書を学ぶ。ガンダーラと並んで,説一切有部が盛んだった。古代のカシミールは北インドの統一国家が成立するたびに服属していた。フン族が,グプタ朝の衰退とともに,ガンダーラ・カシミールを併合し,中部インドにまで進む。ヒンドゥー教を信じ,仏教を迫害,カシミール・ガンダーラの仏教施設,仏教美術を破壊した。6世紀初頭にはフン族も去り,こうしてカシミールは仏教から離れ,7世紀には,独自のヒンドゥー教国を興し,パンジャーブをも征し,ムクターピーダー=ラリターディトヤ(697〜738)は,カシミールの南部から北部,さらに中央アジアまで達し,またヤショーヴァルマンを倒し,全盛となる。のちに,アヴァンティヴァルマン(855〜883)の都跡がスリナガルの南27kmにあることがわかるが,この前後数百年にわたり,この地はサンスクリット文学の一大中心地となった。有名な物語集『カターサリット=サーガラ』が11世紀に出た。また歴史書のない古代インドでは唯一の歴史書『ラージャタランギニー』は12世紀に著された。
その後,イスラームの進出により,14世紀に最初のイスラーム朝が樹立された。その後100年間はイスラーム至上主義の圧迫政治がつづいたが,スルタンのカシミール王ザイヌル=アビディーンは1420〜70の治世に寛容の精神をもち,ヒンドゥー教・仏教の思想にも関心を宿した。スルタン政権ののち,チャク朝になり,1586年アクバル帝Akbarに滅亡させられ,カシミールはムガール帝国に併合。18世紀にペルシアの侵入を受け,ムガール朝から離脱するが,18世紀半ば以降,アフガン人による支配で強硬な政治が行われた。次に1819年シーク教徒ランジート=シングが侵入,支配した。英国とシーク教徒のあいだにシーク戦争が行われ,1846年英国東インド会社政府軍が勝ちを収め,シーク教徒はカシミールを失い,このあと,イギリス保護下にジャム,カシミールのヒンドウー藩王国が誕生した。この結果,藩王はヒンドゥー教徒,住民の多くはイスラーム教徒となり,インド・パキスタン分離独立のさい,カシミールの帰属問題をめぐり問題となり,両国の戦争にまで発展した。カシミールの文化は非常に秀れ,カシミール語文学は,多くの傑作を残している。
〔参考文献〕山本達郎『インド史』1960,山川出版社
梅棹忠夫編『世界の民族第12巻』1980,平凡社
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