●かくれキリシタン
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江戸時代のキリスト教弾圧政策下で,潜伏して秘密組織を形成したカトリックまたはその信徒をいう。厳しい禁教令のなかで,司祭のいないままカトリック信仰を守りぬいたが,長いあいだに少しずつ教義は変化していた。1549年(天文18)イエズス会宣教師フランシスコ=ザビエルが初めて日本にカトリックを伝え,多くの信者を得た(約40万〜60万人)。しかし1587年(天正15)秀吉は切支丹(キリシタン)禁教令をしき,布教活動や宗教活動を禁じたため改宗する者も出たが信仰を棄てない者も多くいた。このため秀吉は1597年(慶長2)長崎の西坂で26名の切支丹を磔刑(はりつけ)に処したが,かえって厚く信仰をもった信者が潜伏して信仰生活をした。江戸時代に入り,家康は秀吉以上に厳しく取り締まり,毎年1月には踏絵と称して聖画や聖像を踏ませて切支丹でないことを宣言させた。潜伏信徒たちは踏絵を踏んで表向き仏教徒であることを表明し檀家寺ももっていたが,各地に隠れて秘密にミサをあげ,洗礼を行い,かたくなに切支丹の教えを守りぬいた。【かくれ切支丹の信仰・生活】かくれ切支丹で著名なのは長崎周辺の浦上・平戸・生月・黒崎などに住み,ほとんど農民か漁民であった。彼らは潜伏して秘密組織をつくり,帳方・水方・聞役という指導部を設けていた。帳方は最高指導者であり,教理や祈りを伝承したり,教会暦から年間の祝日を繰り出し,人々の仕事の休日や祈りを毎週算出していた。水方は授け役ともいい赤子や未信徒に洗礼を授け,聞役は伝令で,たとえば浦上には約700戸以上の家があったが,おのおの小集落に分けて,その代表・聞役が帳方の家へ教会の暦や宗教上重要な教理などを聞きに行き,各家に伝えていた。これは全戸が一度に帳方の家へ聞きに行ったら活動が活発にみえ,秘密活動が発覚するおそれがあったためである。またおのおのの家では“納戸神(なんどしん)”と称して家のなかの最もわかりにくい所に聖母マリア像や聖画を隠しもっていて,納戸に祭檀をつくって毎日お祈りしていた。納戸なら役人が入って来ても発見されるおそれが少なかったからである。こうしてかくれキリシタンは長いあいだ(教会に復帰するまでの250年間),潜伏信仰をつづけた。
【浦上の崩れ】1790年(寛政2)に浦上の潜伏信徒が発覚して逮捕された事件が浦上一番崩れである。“崩れ”とは切支丹検挙事件で大量検挙されて潜伏組織が文字どおり崩れたことからそう呼ぶようになった。1839年(天保10)棄教した者の密告によって帳方が捕えられたのが浦上二番崩れ,1856年(安政3)帳方が逮捕されて三番崩れがあった。その後,日本は開国し,フランス人宣教師プチジャン神父は1864年(元治1)に長崎の大浦に天主堂を建てたが,これは外国人にのみ入ることが許された教会であった。ところが1865年(慶応1)3月,浦上の潜伏信徒,イザべリナ杉本ゆりという女性がこの教会に現れ「私たちはあなたと同じ切支丹です。サンタ=マリアのお像はどこ?」とプチジャンにむかって自ら切支丹であることを名のり出た。こうして神父と切支丹との再会が250年ぶりに実現した。しかし政府はまだ禁教令を解いていなかったので,このとき表面に出た約700戸の家の人々を一斉に検挙し,津和野・萩・福山・名護屋などに流罪にし拷問にかけた。この事件を“浦上四番崩れ”といった。最も厳しい弾圧で殉教者が多数出た。
1871年(明治4)欧米視察に行った岩倉具視(いわくらともみ)らは各国で,日本のキリスト教弾圧を“非文明国”と批判されたために,政府は1873年,禁教令を解いて宗教の自由を認めた。こうして各地に流罪になっていたかくれ切支丹たちは浦上に帰ることを許されて,帰って来たが,この流罪を浦上の信徒たちは“旅に行って来た”といったという。流罪を旅と解釈したのだ。その後,ほとんどがカトリック教会に復帰したが,いまだに先祖伝来のかくれ切支丹をつづけている者が約3万人いるという。
〔参考文献〕片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』1984,時事通信社
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