●神楽 かぐら
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神楽の目的は,年の終わりに,神座(かみくら)に迎えた神霊を採り物で舞う巫者にかからせ,神霊の託宣を得て,神人一体の饗宴を繰りひろげ,衰えかけた生者の魂(たま)をふりおこし,新しい年の幸と豊饒を乞い祈ることにある。さらに,死霊が邪霊(ミサキ)と化さずにすっきりと他界に赴けるように,ときに臨んで魂をしずめることにある。岩戸神話の鈿女(うずめ)が神がかる魂ふりの祭儀も,遊部(あそびべ)が殯所において幽顕の境を隔てる死霊の魂しずめも,いずれも神遊びとされる神楽による鎮魂なのであって,タマシズメはそのままタマフリでもあった。【宮中の神楽】遊部の歌舞は天武天皇の殯宮ではすでに悪霊ばらいの楯節舞に移行していたが,11月の鎮魂祭では御巫(みかんなぎ)と猿女による天皇の鎮魂が年ごとに行われた。清暑堂の琴歌神宴,園・韓神祭の神楽,賀茂・石清水の里神楽などを集成して儀式化された内侍所御神楽は,11世紀初頭以降ひきつづき行われてきた。庭燎の舞のあと,人長(にんじょう)が舞人それぞれに採り物界を舞わせ,阿知女(あちめ)作法で巫女の名を呼び,前張(さいばり)や雑歌で神人一体の饗宴を繰りひろげた。その作法や神楽歌は12世紀の鍋島家本『神楽歌』にみられる。
【民間の神楽】神社の社頭に舞われる洗練された巫女神楽のほかに,ひろく各地で神社以外の場で行われている神楽は,重点を置く場面によって大きく三つの系統に分けられる。[1]湯立神楽 伊勢・熊野・諏訪の信仰に関与した宗教者たちが,湯立による祈祷に主体を置き,神迎えして,湯釜を中心に激しい舞を舞い,来訪霊の鬼と問答したり,面影の舞を演じたりした。本州中部に分布し,奥三河(愛知県)の花祭りに代表される。ここではかつては7年目ごとの本御神楽で生まれ清まりの浄土入りがあった。[2]獅子神楽
本州中部から東部にかけて,権現と呼ばれる獅子頭を神座として祈祷や悪魔ばらいをして巡行した宗教者たちがいた。伊勢信仰の流布者による伊勢太神楽ではこれに散楽風の芸能的要素を加えており,東北地方の修験者たちによる権現舞では翁舞を含む古風な猿楽の能を舞った。山伏神楽・番楽や法印神楽に代表される。[3]採り物神楽 西日本では,郷村の形成とともに,その氏神の祭祀のほかに,本来的には血縁による小共同体の名(苗・みょう)の祖霊祭祀が神楽によって中世後期以降ひろく行われてきた。修験の系統であって神道色が濃い法者(ほうしゃ)などと呼ばれる祭司層が村々の氏神の宮の脇に定着し,神子(巫女・みこ)や男巫と組んで,弓神楽の家祈祷・死霊のしずめとともに,名の祖霊の祭りに従った。神楽では,悪霊をはらい,採り物舞で神迎えして,祖霊の神がかりの託宣を聞き,死霊を祖霊にまつりあげ,そのあいだに仮装したさまざまな神霊を示現させて,祝福の舞を舞わせたり,悪霊の具象化の鬼をはらわせたりする,大和猿楽とは別の系譜の神楽能を演じた。神楽能は一面では法者の威力を顕示するものでもあった。備前(岡山県)の国中の神子・法者たちが村々での神楽事を奉った備前一宮の1470年(文明2)6月の祭りの御神事神楽では,すでに湯立による神がかりの託宣や藁蛇による御綱遊びが行われていた。岡山県備中・西美作地方,広島県備後北部地方の式年の荒神神楽と島根県石見地方の大元神楽には神がかりによる名の祖霊祭祀が現存する。しかし,神楽能は近世中期以降唯一神道と国学の影響により中世的色彩が大幅に払拭され,さらに芸能化されて,明治以降は農民の神楽組によってさかんに舞われるようになった。民間の神楽の三つの系統に共通する根本の意図は生者・死者いずれもの鎮魂と悪霊の鎮送攘却にある。だが,死霊の鎮魂と祖霊化を目的とした菩提神楽・浄土神楽・松神楽などの霊祭神楽の大半は明治以降に廃絶した。
〔参考文献〕本田安次『神楽』1966,木耳社
石塚尊俊『西日本諸神楽の研究』1979,慶友社
岩田勝『神楽源流考』1983,名著出版