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●学生運動 がくせいうんどう

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 学生が研究・教育の自由と学園自治のために闘った事例は,明治期にもあったが,学外の政治運動・社会運動にも早くから参加しており,明治10年代の自由民権運動から,明治20〜30年代の足尾鉱毒事件日露戦争時の反戦平和運動やその後の社会主義運動などにも大きな足跡を残した。しかし学生のこうした運動が組織化され大きな運動として展開されるようになったのは,第一次世界大戦以後で,大正デモクラシー運動の高揚・1917年のロシア社会主義革命の成功・翌年の米騒動などに刺激され,1918年(大正7)に京都大学に労学会,東京大学に新人会が生まれ,労働団体の友愛会と提携し,吉野作造らの民本主義に共鳴して普通選挙運動を展開したのがきっかけであった。ついで1921年2月の原敬内閣による普選法案の流産と労働運動・農民運動の発展は,学生を“ヴ=ナロード運動”(人民のなかへ)に導き,1922年2月に日本共産党が結成されてからは,その影響を受けて,急速に左傾化していった。同年11月各大学の社会科学研究会を中心に学生社会科学連合会(学連)が結成され,1923年1月には高等学校連盟が生まれた。ついで1926年(昭和1)12月には女子学連が結成され,1933年の京大滝川事件で壊滅的な打撃を受けるまで,学生運動の波は全国的に高まった。学連は,全国各地の大学,高等専門学校のなかに生まれた社会思想団体が,1922年11月のロシア革命記念日に地下組織として結成した学生連合会がその前身で,翌年の大学擁護運動で公然化し,1924年9月の全国大会で全日本学生社会科学連合会と改称した。学連は全国学生軍事教育反対同盟や全日本学生自由擁護同盟を組織して,教育の軍国主義化に反対し,学問・教育の自由,学内自治運動を展開し,さらに学外の労働運動とも結合して社会運動に大きな役割を果たした。1925〜26年には,野呂栄太郎・鈴木安蔵ら38名が治安維持法違反で逮捕・起訴された学連事件がおこっている。しかし1929年3月日本共産青年同盟が学生運動に関するテーゼを発表し,〈学生だけの,学生のための学生運動というものはありえない。すべての学内闘争はプロレタリアの意志に従属すべきである〉としたため,全日本学生自由擁護同盟・新人会も,学連とともに“戦闘的解消”を声明し,それ以後学生運動は,共産党と共産青年同盟の直接指導下に置かれることとなった。このあとしばしば左翼学生事件がおこり,多数の学生が検挙された。他方,1931年9月満州事変がおこり,中国への侵略戦争が開始されるや,軍部や民間右翼にあと押しされた右翼学生団体が東京を中心につくられ,1万人以上の学生を組織した。このなかにあって,左翼学生は,京大「学生評論」事件(1937〜38)・インター=カレッジ事件(1939)・東大イニシャティヴ=コミッティ事件(1940)・大阪商大事件(1943)などをおこしたが,やがて第二次世界大戦が拡大し戦局が悪化するにつれて,学生勤労動員・学徒出陣などもあり,運動はしだいに衰退していった。

 第二次世界大戦後再出発した学生運動は,共産党の影響を強く受けながらも,研究・教育の自由・自律をめざす自治会に基盤をおいて組織を強化し,1948年9月に全日本学生自治会総連合(全学連)を結成し,1949年9月に国際学生連盟に加盟した。全学連は,1949年11月から翌年にかけて大学法反対闘争を闘ってこれを阻止し,また反戦平和運動・基地反対闘争などを闘って社会運動の先端をきった。その後,共産党の分裂さわぎにまきこまれ,極左冒険主義の横行とあいまって,一時著しく弱体化したが,1960年の日米安全保障条約改定反対の安保闘争を契機に再び発展し,1960年代の学費値上反対闘争・学内民主化闘争で全国的に激しい運動を展開した。

〔参考文献〕菊川忠雄『学生社会運動史』1947,海口書店

高桑末秀『日本学生社会運動史』1955,青木書店

中村新太郎『日本学生運動の歴史』1976,白石書店