●学制頒布 がくせいはんぷ
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【公布】学制は,わが国の近代学校制度創設に関する基本方針を示した法規である。1871年(明治4)12月,文部省は学制草案の起草に着手,翌1872年1月には基本構想を示す大綱が太政官に上申された。同年8月2日,太政官布告第214号とともに学制を公布し,翌3日,文部省布達第13・14号に同太政官布告を添えて全国に頒布した。学制は,その後文部省布達第30号(1873年3月),同第51号(1874年4月),同第57号(同)によって,条章の追加改正がなされた。これによって,封建制のもとの学校制度とはまったく異なる近代学校が成立し,わが国の教育史上の画期となった。【理念】学制の基本理念は,学制公布にあたって出された太政官布告第214号(学制序文・勧学の御布告・被仰出書などとも呼ばれる)において明らかにされた。そこでは,〈人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆゑんのものは他なし身を脩め智を開き才芸を長ずるによるなり〉と,学校教育の目標が示され,立身出世のための学問の必要性が説かれている。ここで示された学問観は,学問は個人の立身のために修めるものというものであり,従来支配的であった国家の役にたつために修めるものという考え方とは基本的に異なるものである。これは,近代産業生活を前提とした国民皆学を構想するものである。そのための施設としての学校については,〈邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す〉と,全国民を対象として全国に設立することが示されている。このように太政官布告では,学問の意義や学校教育の主旨を述べることによって,近代学校の精神を学制の基本理念として示しているのである。
【構成・内容】学制は全109章からなり,「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の各項目で構成されている。第1章において,全国の教育行政が文部省に統轄されることが明示され,第2章以下で学区制の採用が述べられている。すなわち,全国を8大学区に,1大学区を32中学区に,1中学区を210小学区に区分し,1大学区に大学1校,1中学区に中学校1校,1小学区に小学校1校を置くこととしている。このように,学制は学区制にもとづく近代学校制度を企画した。小学校は〈初級ニシテ人民一般必ズ学バズンバアルベカラザルモノ〉,中学校は〈小学ヲ経夕ル生徒ニ普通ノ学科ヲ教ル所〉,大学は〈高尚ノ諸学ヲ教ル専門科ノ学校〉と規定され,小学・中学・大学の3段階からなる全国民を対象とする単一系統の学校体系が定められた。学区は,それにもとづいて学校を設置する区画を設定しただけでなく,教育行政の単位区画でもあった。すなわち,大学区には各大学本部に督学局が置かれ,各中学区には学区取締が置かれた。このような学校制度・教育行政組織について以外では,海外留学生について一つの項を設け,31章にわたって規定していることが注目される。これは欧米文化吸収によって近代日本建設の担い手となる人材を養成することを政府がいかに重視していたか,を明らかにしていよう。なお学制は,のちに条文の追加・削除・改正などが行われ,全文は213章に及んだ。
【実施】学制は1872年(明治5)8月の公布と同時に実施されたわけではなく,むしろ将来を見通した教育制度全般の構想であった。したがって,まず小学校の設立に力が注がれ,その基礎の上に中学校などの整備が期された。1875年には小学校数約2万4,500,就学率約35%となり,その後も就学率の上昇がみられた。このように,全国民の就学をめざして学校の普及をはかった学制は,わが国の国民教育制度を確立したという意義をもつ。しかし,当時の国力・民力からみて学制の完全実施は経済的負担が大きすぎたうえ,欧米先進諸国の教育制度を範として定めたもので,わが国の教育の実態から生み出されたものではなかったので,問題点も多く含まれていた。1879年9月,教育令の公布とともに廃止された。
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