●科挙 かきょ
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6世紀末の隋の文帝期に,門閥主義にもとづく人材の登用(九品官人法)に代わるものとして始められ,清朝末期の1905年(光緒31)まで,およそ1300年間つづいた高等官資格試験制度。科目別に選抜(選挙)することから科挙と呼ばれる。科目は,隋代に秀才(科)・明経(科)・進士(科)の3科が知られ、唐ではさらに増えて12科を数えた。このうち,唐初まで重んじられた方略策を問う秀才科は,難関のため中途ですたれ,代わって経学を課す明経,文学の能力を試す進士,とりわけ将来を約束された後者に人気が集まった。応科には,国学以下の学校の生徒からの選抜と,州県での考査をへて中央に推薦される(郷貢)の,二つのコースがあった。唐代,科挙は,則天武后が権力を握ったころから本格化したといわれるが,しかし一方で,家柄や父祖の官位にもとづく任子の制(恩蔭)が依然重要な立身の途として残り,しかも科挙試の場合,中央礼部(最初は吏部)の試験に合格しても,任官にはなお,吏部の行う身(容貌)・言(ことば)・書(筆跡)・判(判例)の貴族的素養を試す関門にパスしなければならないなど,貴族主義的影響から脱しきれていなかった。それが制度として確立し,官界への登龍門となるには,唐末五代の武人政治に終止府をうち,文官統治による中央集権をめざした北宋までまたなければならなかった。太祖は,宋初975年(開宝8),地方の州(府)単位の解試,中央吏部で実施する省試の上に,新たに殿試(御試)を加えた。殿試とは,宮中の講武殿で,皇帝立合いのもと省試通過者のなかから最終合格者を決する試験であり,この創設によって,科挙への評価は高まり,また科挙出身官僚をして,皇帝の特別の意思を体した栄誉ある存在であることを自負させ,皇帝の忠実なる臣下として君主独裁制の実現に邁進させることになった。なお殿試では初め落第制がとられたが,のち撤廃され,序列の変更のみに限定された。科目は進士科と,明経の流れをくむ諸科とで始まったが,のち一本化,科挙といえば進士科そのものをさし.多くの名臣がここから輩出した。試験の時期も,4年1回,2年1回などの段階をへて,1066年(治平3)に3年1回となって定制化し,後代へと踏襲された。試験において公正を期すために,糊名法や謄録法が始められたのもこの時期のことである。宋代もう一つ注目される試みは,王安石の三舎法による学校制度の導入である。これは,学問・人格ともに優れた人材を,外舎・内舎・上舎の3段階の学校を通して,官僚として育成しようとするもので,ゆくゆくは科挙試に代わることが期待されたのであった。このように宋代は,さまざまな改革が実行されて,ほぼ制度として完備をみた。したがって,こののち科挙が重視される明から清において,基本的に宋制が受け継がれるが,しかし応募者が増大し競争が激化するなかで,制度の繁雑化は避けえないところであった。明清時代の制度の特徴は,まず宋の3段階の科挙試を郷試・会試・殿試の形で受け継いだ上に,応科の資格は府州県学の学生(生員)であることを原則とするとして,科挙試と学校試を一つに結びつけたところにある。学校はここに本来の目的から大きくはずれ,生員に科挙受験の予備試験(科試・歳試)を課す機関,科挙全体における単なる一関門を意味するにすぎなくなり,受験生にいっそう長く重い負担を強いる結果となった。科挙はこうして前途ある青年を科場につなぎとめたのみならず,身分格差の増幅,文化の画一化や固定化,社会の沈滞をもたらし,西欧世界に決定的な遅れをとらせることになった。しかし反面,他に例をみない整った官僚制を早くに成立させた。また読書人と呼ばれる独特の知識階層を生み,多様な価値感で構成される社会のなかで共通の文化的土壌をはぐくみ,国家統一を促す重要な契機となったことなども,科挙制の良い面の一つとして注目されてよい。これはまた,高麗期下の朝鮮でも行われ,のち近代ヨーロッパ諸国の官僚組織の整備にあたっても影響を及ぼしたといわれる。〔参考文献〕宮崎市定『九品官人法の研究−科挙前史−』1956,同朋舎
宮崎市定『科挙−中国の試験地獄−』1963,中公新書
荒木敏一『宋代科挙制度研究』1969,同朋舎
村上哲見『科挙の話』1980,講談社現代新書
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