●部曲 かきべ
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古代において豪族に支配された部民。『日本書紀』中の「安閑紀」が初見であるが,「皇極紀」に「百八十部曲」と称するように,大化前代において,直接天皇家に支配されぬ部民も少なくなかった。「カキベ」の語源は,「垣内の部民」の意味で,豪族層の田荘などの耕作にあたる民をさすものである。部曲ということばは,唐や新羅にみいだされ,賎民的身分のものであったが,これを日本において採用する場合,豪族層の支配下の部民にあてたのは,恐らく天皇や朝廷に直接支配された名代・子代(なしろ・こしろ)の民,品部(しなべ)などと区別したためである。つまり,朝廷からすれば,陪従者的身分のものと見なされていたようである。ただ,大化前代の部曲は,豪族支配下の部民であったが,全部が全部奴隷制的な支配をうけていたわけではない。大別して大化前代においては,天皇家ないしは朝廷に支配される民と,豪族に支配される民の2系列が併存していたわけで,部曲が直に豪族私有の奴婢ではない。646年(大化2)の改新の詔において,部曲も廃され,朝廷の支配下の民に一元化されていったが,その一部はあいかわらず,豪族の支配下に残されていた。664年(天智天皇3)に民部・家部(かきべ・やかべ)を定めたのも,依然として部曲が残存していることを示すものである。もちろん,民部・家部の定置が白村江の敗戦を契機とした処置だけに特別処置と考えられ,676年(天武天皇4)に再び廃されていることに注目しなければなるまい。出兵によって経済的打撃をうけた豪族層のたてなおしのために,一時的におかれたものが,おそらくこの民部・家部ではなかったろうか。民部・家部の定置と,氏族の氏上の設置が同時に行われている点からすれば,これらの民部・家部は,氏上の支配下にあった民と考えるが,「養老令」などにみえる氏賤(うじせん)と同一視することは誤りである。なぜなら676年に民部・家部は廃されているからである。家部の分布が西日本に比較的多いのは,この地方の豪族が白村江の戦いに多くかかわっていたからである。中国において,部曲は私家の所有する民とともに,私人の有する軍隊を意味する場合があることは注目すべきである。「天智紀」3年の条に〈基の大氏の氏上には大刀を賜う。小氏の氏上には小刀を賜う。其の伴造らの氏上には干楯,弓矢を賜う。亦其の民部,家部を定む〉とあるが,軍事的な色彩の強い記事であることに着目すれば,この民部(部曲)も耕作民であるとともに一面私兵的な性格を有するものであったかも知れない。律令制的軍制が整備されるのは天武・持統朝以後でそれ以前にあっては,豪族がその領域下にある民を私兵として組織して参加していた。そのため,新羅・唐の進攻におびえ防衛線の強化につとめていた政府は,その対策の一貫として豪族層の軍事的経済的基盤の整備をはかった。それが,いわゆる民部・家部ではないだろうか。その危機的状態を脱した天武朝には,これが廃され,やがて律令制的軍制が整えられることになったのである。〔参考文献〕坂本太郎『大化改新の研究』至文堂
北村文治「改新後の部民対策に関する試論」北海道大学文学部紀要6