●鏡 かがみ
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【名称】「影見」(日本書紀通釈)などの説が,最も一般的に理解されているその語義とみられる。わが国ではもっぱら鏡の字があてられているが,中国では周代から鑑の字が用いられている。鏡は金属の一面を研磨したものであり,鑑は水鏡を称する。元来,鑑は氷を容れ,そのなかに食物を貯えて腐敗を防ぐためのものであったが,水を湛えて覗き込む用にも用いたものであろう。後世歴史のことを鏡になぞらえ,歴史書の名称に鏡または鑑の字を用いるものが現れたが,中国では通鑑(つがん)などのように鑑を,わが国では四鏡(しきょう)のように鏡を用いた。【用途】鏡は映像の目的以外,呪術的に利用されることが多く,わが国でも神社の御霊代,御正体・懸仏,神社や仏前への奉納,あるいは鎮壇具や納置品とし,また経塚や墳墓に埋葬,池沼・海底に投入する場合もあった。なお,漢代の陽燧という凹面鏡は,日光を収斂して発火の用途に供せられた。
【系統・種類】鏡の発生は西洋系と中国系とが考えられる。西洋系はローマ・エトルスキー時代からギリシア・エジブトにさかのぼるといわれるが,中国系は周代にさかのぼり,それより戦国・秦・漢をへて唐におよんでくる。わが国への影響は中国系,それも主として漢代のものからであり,いわゆる漢式鏡といわれるものが各地から出土する。漢式鏡は前漢鏡と後漢鏡に分かれ,その中間に王莽時代の鏡が挟まれている。前漢鏡はそれ以前のものに比し単純かつ洗練された意匠であり,円形・方形の区画を設け鳥や龍の模様をあしらっている。重圏精白鏡・内行花文鎮などと名づけられるものがこれに属する。次の王莽鏡といわれるものは,王莽の統治時代の年号「始建国」や,漢代の工作官庁「尚方」の文字が表されているので,王莽時代の作品とみられているものであるが,方格規矩鏡と呼ばれるTLVの文字形の模様を含んだものが最も精巧である。それらはその空間に四神,すなわち青龍(東),白虎(西),朱雀(東).玄武(北)の図を表したものが多い。最後に後漢鏡には双鳳文を中心に表した鏡や,鳥や獣首を表した獣首鏡,また当時の画像石の表現と同様に,神仙的な東王父,西王母,そのほか神人・瑞獣・車馬,故事などを表した画像鏡などというものがある。
【日本にみられる古鏡】漢式鏡でわが国に出土するものには,伝来品のほか,わが国で模造してつくられたホウ※注1※製鏡も数多く存在する。ホウ※注1※製は原型を粘土に型押し・焼成してつくった鋳型を用いるいわゆる踏返し法によることが多いが.そのため文様・構成とも不鮮明拙劣なものが多い。また,2種の中国鏡から諸要素を集めて組み合わせてみたり,周縁に中国鏡にみえない数個の鈴を取り付けた鈴鏡という独創的なものも現れてくる。なおホウ※注1※製の問題とは別に,同一の鋳型からいくつかの鏡がつくられている場合,これを同笵鏡といっている。また弥生式遺跡にあってはこれら漢式鏡のほかに,沿海州から朝鮮半島にわたってみられる多鈕細文鏡と称するものが出土する。これは背面に細い線で鋸歯的な3角形を表したもので,複数の鈕があり白銅製かつ凹面鏡のものが多い。その多鈕であり凹面ということから考え,映像を目的とする化粧用具とみるより,宗教的・呪術的性格が大きいと考えられる。つづいて唐代にいたると,唐は国運の隆昌とともに西方遠くローマにまで交渉があったので,唐鏡の製作にはそれら諸地方からの影響が加わり,文様においても葡萄唐草文をはじめ胡人・狩猟・騎馬・打毬・鸚鵡・羊など西方要素の模様のあるものがつくられ,これらのものが中国古来の伝統的な霊獣・神仙,古典的物語を表した図柄のものと並んで出現する。またその製作においても平脱・螺鈿・七宝などの技法を駆使し,さらに形状においても従来の円形・方形以外八稜鏡が多く現れてきた。わが正倉院に所蔵されている50数面の鏡はたいてい唐時代の作品であり,その伝世保存の万全によって,平脱・螺鈿など,当初の姿が十分推測できる。わが国においては漢式鏡はおおむね出土品として存在するが,唐式鏡はこの正倉院所蔵のものをはじめ,奈良諸大寺ないし古神社に伝世品として伝えられるものが多い。その後平安時代に入るとこれら舶載品あるいはそれを模したホウ※注1※製品が減少するとともに,いわゆる和鏡の製作が盛んとなった。和鏡は平安の中期にその形式が定まり,とくに瑞花双鳳の図柄の八稜鏡が流行した。小型で肉薄く,したがって軽量のものが多くその描線は細い。図柄については唐風の空想的なものではなく,現実にわが国にみられる草木花鳥をあしらうこととなり,なかんずく松喰鶴の文様は当時の好みに合致して盛んにつくられた。鎌倉時代には量感に富む和鏡が現れ,また室町時代のものは技巧に走り過ぎるとはいえ,いずれも図柄は絵画的に優れたものとなった。そして室町末期から江戸時代にかけて鈕を除去して柄を付けた柄鏡および製作者の名を背面に鋳出したものが多くなった。
【鏡による歴史の解明】[1]家屋文鏡・狩猟文鏡−奈良県北葛城郡河合村佐味田宝塚古墳から出土した家屋文鏡といわれるものは,その内区に4棟の異なった家屋が描かれている。すなわち入母屋造竪穴住居,入母屋造低床住居,入母屋造高床住居および切妻造高床倉庫である。この竪穴住居が奈良県天理市櫟本町東大寺山古墳から出た環頭の頂にある家形と類似し,古代の家屋を推測せしめるによい材料とみられている。また高崎市八幡原町出土の狩猟文鏡といわれるものには,内外両区に鹿を追う人物を描いている。これは香川県出土銅鐸にみられる文様が,米搗きや穀倉の図と並んで狩猟の文様が描かれているのとあわせ,古代人の生活のようすを推測せしめるものがあり,古代史の参考となる遺品である。[2]三角縁神獣鏡−鏡の縁の断面が3角形をなし,半肉彫の神人および獣形の文様を有するもので,日本の各地に出土するが,そのなかでも大阪府泉北郡信太村黄金塚古墳から発見されたものに,魏の年号「景初三年」の文字がみえる。これをそのまま解釈してこの鏡を魏時代の製作と考えれば,『魏志』倭人伝にみえる卑弥呼女王が魏に遣使したとき与えられた「銅鏡百枚」の一つに比定され,さらにこの種の鏡が京都府山城町椿井大塚山古墳をはじめ,近畿一円に多く出土することにより,邪馬台国大和説にとって一つの根拠に用いられている。[3]隅田八幡画像鏡−和歌山県橋本市隅田八幡に所蔵されているホウ※注1※製鏡で,その外区に〈癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作比竟〉の48文字がある。年代そのほか解読法には諸説があるが,そのなかの〈意柴沙加〉の文字は固有名詞「忍坂」であると考えられることから,これがわが国における製作であるとみなされ,この鏡の原型と思われる中国製の鏡の出土地,大阪府八尾市郡川古墳の年代より考え,5世紀末にこのホウ※注1※製鏡がつくられたものとすれば,そのころすでに漢字をもって地名を表示しうる人物が存在したことになり,漢字のわが国への伝来に一つの経路を示すものと考えられている。[4]四仏四獣鏡・三仏三獣鏡−千葉県木更津市祇園,長野県飯田市御猿堂・岡山県都窪郡庄村などから出た4人の人物と獣形の図柄の鏡,また京都府園部垣内古墳などから出た3人の人物と獣形の図柄の鏡などが,いずれもその人物が仏像を表すものと推定されることにより.それぞれ四仏四獣鏡,三仏三獣鏡と称せられているものであるが,とくに垣内古墳の築造年代が4世紀後半と推定されることにより.このころすでに仏教の知識ある人物がわが国に存在したことを示し,仏教のわが国への伝来につき文献以外の一経路を示している。[5]海獣葡萄鏡−唐鏡の一種で海獣と葡萄の図がある。7〜8世紀に招来され奈良時代の代表的鏡となっているもので,全国に20数面発見されているが,法隆寺五重塔修理の際にもその心柱下の舎利容器とともに発見された。法隆寺再建論は若草伽藍址発掘によって固められたが,この鏡の発見もそれを助けている。
〔参考文献〕小林行雄『古鏡』1965,学生社
森浩一編『日本古代文化の研究鏡』1978,社会思想社
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