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●加賀藩 かがはん

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 金沢藩ともいい,加賀・越中・能登3国にまたがる大藩で,徳川氏につぐ所領を有した。織田信長の臣・前田利家が1581年(天正11)4月27日宮腰湊の初期海商中山主計の先導で金沢城へ無血入城,28日羽柴秀吉も入城した。戦功により能登23万石を安堵され,新たに加賀の石川・河北2郡を与えられ能登府中城(七尾城)から金沢城に入った。これが加賀藩の始まりである。このとき利家は金沢城・金沢町が一向宗門徒の命名であるとし,尾山城・尾山町に改めた(2代藩主利長のときもとに戻った)。1585年(天正13)秀吉とともに越中を平定した功により石川郡松任城にて4万石を領していた利家の長子利長は,越中4郡のうち3郡を与えられて守山城に入った。1587年(天正15)新川郡を預領とし,1595年(文禄4)3月近江高島郡を,ついで新川郡を加封,能美・江沼2郡と石川郡松任を除く加越能3国82万石余の大名となった。1599年(慶長4)利家が病没し,利長が2代藩主になった。徳川家康による加賀征伐の噂を知ると,利長は家臣を遣して和し,母芳春院(利家夫人)を人質に,弟利常を世嗣とし徳川秀忠の息女珠姫を娶ることで事態を収拾した。加賀藩では,「慶長の危機」と呼んだ。翌1600年(慶長5)関ケ原の戦いには遅れながら,五大老中徳川氏につぐ実力をもつ前田氏が徳川方への旗幟を明らかにし,大坂方へ多大の衝撃を与え,徳川方に勝利をもたらした功績をもって,家康は前田氏に江沼・能美2郡を加増した。ここに前田氏は119万2,760石(寛永11年朱印状)の大大名となった。1601年(慶長6)弟利常が珠姫と婚し,秀忠も将軍となった。1605年(慶長10)富山城に隠居,2代将軍を岳父とする利常が3代藩主となった。その後,1631年(寛永8)家臣に対する大坂両陣の追賞・加増や艦船の建造・城の修築などが謀反の噂となった。利常は家臣を江戸に派遣して幕府に陳謝,事なきを得た。これを「寛永の危機」と呼んでいる。このような幕府の猜疑から領国を守るため,将軍家光の養女大姫と婚した長子光高(4代藩主)に80万石を与えて金沢城に置き,次子利次に婦負郡10万石,3子利治に江沼郡7万石を与え,富山城・大聖寺館に住まわしめ,自らは新川郡22万石を養老領として小松城に隠居した。1658年(万治1)7月光高の長子綱紀(後の5代藩主)は,家光の異母弟会津藩主保科正之の息女摩須と婚し,10月祖父利常の病没と同時に藩主となった。初期前田氏治政は徳川氏の猜疑を避け,ひたすら前田家を守ることであり,一向宗門徒の蜂起を阻止することであった。たとえば,利長は徳川氏の重臣本多正信の2子政重を家臣とし5万石を与えているが,幕府の圧力の最も強かった利常の代は,完全に臣従を余儀なくされている。利常は,秀吉生存中の父利家・兄利長の栄光を知悉しているだけに強い抵抗感を秘めていた。将軍にすすめられた松平姓を謝辞して菅原姓を用い,能楽においては観世流を排し宝生流を採用するなどエピソードにこと欠かない。“武の府”江戸に対抗して金沢を“文の府”たらしめようとし,諸国から学者・文化人・工芸職人を招き自ら文化将軍を自負し,孫の綱紀にも同様の自負心をもたそうと,保科正之を後見人とし水戸光圀から学問・教養を学ばせた。利常は藩体制確立のため改作法を実施し,藩政300年をとおし主穀中心農政をゆるぎないものにしたが,反面,加賀藩を明治維新のバスに乗り遅れさせる側面ともした。また,金沢城下町を一向宗門徒を鎮めるおさえとし,かつ近世都市とするため,1615年(元和1)以降,身分制的都市プランをすすめ,17世紀半ばには近世的金沢城下町を完成した。18世紀に入ると百姓一揆・打ちこわしが領内に頻発し,そのたびに産物政策を含めた藩政の改革をすすめるが,年寄衆の8家による閥族支配と主穀中心主義に阻まれ,譜代・外様中の大藩でありながら無為に明治維新を迎えた。1869年(明治2)金沢藩,1871年(明治4)金沢県,1872年(明治5)石川県となった。

〔参考文献〕田中喜男『加賀百万石』1980,教育社

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