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●加賀の一向一揆 かがのいっこういっき

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 15世紀後半から16世紀末,戦国期の加賀・能登・越中3国に展開した一向宗(浄土真宗)・本願寺坊主・門徒の反大名闘争である。一向一揆が盛んになったのは蓮如が越前吉崎御坊に布教を始めた1471年(文明3)以降のことである。2年後の1473年(文明5),加賀国の守護大名富樫政親は弟の幸千代と国を2分して争っていたが,政親の懇請を受けた門徒は幸千代を国外に追放し,政親は支配地を統一した。翌1474年(文明6)弱体化した支配権力の挽回を考える政親は一向宗門徒の弾圧を始めた。このため蓮如は去り,一向宗坊主・門徒は越中に逃げた。1481年(文明13)越中福光城主石黒光義は政親に呼応して瑞泉寺を攻めたが,逆に門徒はこれを破り,余勢を駆って能登に進出した。1481年(文明14)加賀・越中国境の門徒が越中砺波郡で一揆をおこし,石黒光義が天台宗育王山(医王山)惣海寺衆徒を滅ぼした。

 1487年(長享1)9月政親は将軍足利義尚の命で江州佐々木六角攻撃に従軍したが,門徒の動きが活発化し,荘園をめぐる紛争が激しくなったことを聞き帰国,門徒を抑えようとした。ここにいわゆる長享の一揆が勃発した。数万の農民軍は政親の立てこもる高尾山へ押し寄せ,6月9日政親を自刃させた。政親34歳であったという。この後,加賀は「百姓ノ持タル国」となった。このように守護大名を自刃に追いこんだ農民とは,大きな田畑を保有する地域の有力農民で土豪ともいわれ,戦闘力をもつ侍でもあったから地侍あるいは国人とも呼ばれた。彼らは「講」をつくり,道場を建てて道場坊主となり,門徒集団の中核として大名の収奪に抵抗した。富樫政親滅亡後は本願寺と,蓮如の子息が住職になっている三山の大坊主(河北郡若松の本泉寺・能美郡波佐谷の松岡寺・江沼郡山田の光教寺)との連合支配となった。他方,政親を滅ぼした三山の大坊主と他の一向宗坊主とのあいだに主導権争いが始まり,1531年(享禄4)の錯乱となったが,結果的に三山の大坊主と,これに結びついた土豪は没落し,本願寺直参衆を中心にした大名領国制に近い本願寺体制が完成した。

 1546年(天文15)小立野台地の突端(のちの金沢城本丸の地)に阿弥陀如来木像を安置する金沢御堂が建立され,周辺には本願寺沢遣の堂衆(坊官・武将),近江一向宗の長老赤野井慶信・武佐の広済寺らが居住し,ほかに門徒衆の宿所・詰所・番所・他屋が建ち,金沢御坊を成立した。金沢御坊の西域に近江町・西町・堤町・後町・南町が立ち,いわゆる金沢寺内町をつくった。寺内町は一向宗門徒による自衛的な都市で,石山本願寺など畿内に多く存在するが,北陸ではほかに,吉崎御坊・越中の城端・井波・古国府にみることができる。金沢御坊の地は砂金掘りを業とした金屋により発見されたもので,金沢の地名は早くから本願寺に知られていた。

 1580年(天正8)3月織田信長と和した顕如は石山本願寺を去った。4月柴田勝家は信長の命により,北陸一向一揆の最大拠点金沢御坊を攻撃して,これを落とした。しかし,門徒農民はこれ以後も山間部の能美丘陵・白山麓で抵抗をつづけたが,なかでも手取川峡谷の山内衆は,6月勝家に抵抗した。晩秋,勝家は大規模な掃討戦をすすめ,鈴木出羽守(雑賀衆鈴木孫一重秀の一族という)の守る鳥越城・支城の二曲城を奪い,鈴木出羽守を自刃させた。1581年(天正9)2月山内衆は鳥越城・二曲城を奪回したが,金沢城の守将佐久間盛政により再び奪取された。1582年(天正10)2月山内衆はさらに蜂起したが鎮圧され,3月1日尾添村・吉野谷村の門徒農民300人が礫刑に処せられ,両村は3カ年にわたり廃村同様となった。こうして北陸の一向一揆はようやく終結した。

〔参考文献〕笠原一男『一向一揆の研究』1962,山川出版社

井上鋭夫『一向一揆の研究』1971,吉川弘文館

北西弘『一向一揆の研究』1981,春秋社

石川県鳥越村教育委員会『鳥越城跡』1979,石川県鳥越村教育委員会