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●科学史(日本) かがくし

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 日本の学問・文化は,6世紀以来中国から伝えられた漢字文化を基礎にして成立した。16世紀にポルトガル人によりキリシタン文化が伝えられるまで,西欧との交渉はもたなかった。また江戸時代に鎖国政策をとったため,西欧との交渉はなおオランダ1国に限られ,結局明治期に入るまで,西欧科学の本格的な受容はなされていない。それゆえ日本には19世紀半ばまで,西欧で成立した科学と同等の学問は存在せず,むしろ日本独自の自然学を育ててきた。明治以後,西欧科学の全面的な導入が始まったが,わずか数十年で各分野を次々に自立させるような急激な推移をみせている。これは西欧先進国以外の国で科学を受容し自立させ得た最初の例でもあり,世界史上特殊なできごととして広く注目されている。しかし長い低迷と,その後の急速な発達というこの歴史的経過には,科学史としても日本独特の歴史的性格が織り込まれている。以下,時代順にそのなりゆきを概観する。

【16世紀まで】[1]日本の文化は奈良時代・8世紀に最初の興隆期を迎えた。6世紀以来,朝鮮・中国との交流をとおして仏教・儒教・道教の文化的受容を重ねてきたが,ここにようやく中国文化を消化した上での日本的自立がみられる。なかでも文字文化の成立をみたことが学問史上重要である。初めて日本の歴史・地理を記録した『古事記』『日本書紀』『風土記』などが編さんされ,日本詩歌の原点となる『万葉集』が成立する。ここでは万葉仮名による日本語の表記法が開始された。これはいずれ仮名文字成立への起点となる。中国の統治組織を導入して律令制度を施行したが,これで暦・算・医など学術分野の制度的促進の端緒が得られた。[2]平安時代・9〜12世紀には,空海・最澄らの仏教の学問的究明が進むとともに,物語・随筆文学が興隆し日本文学の礎石が築かれた。仏教的背景をもった日本の自然観の情緒的な性格が,ここで強く打ちだされてくる。自然の認識ではなく,自然の鑑賞へと傾きやすい文化的伝統が固められたことは,その後の自然学成立への経過に大きな影響を与えていく。861年(貞観3)に制定された宣明暦が,江戸時代の半ばまで800年以上も不完全なままで改良されずに過ぎたことも,これと無関係なことではない。日本人は月や雲に心はよせても,天体現象の規則性にはほとんど関心をもたなかったことによる。[3]鎌倉時代・13世紀になると武家政治が始まり,それとともに庶民層に仏教の各宗派が浸透し,仏教の日本的な自立が促進された。禅宗・浄土宗・浄土真宗・日蓮宗などが,その後日本人の生活に大きな影響力を与える宗教として確立されただけではなく,もっと広く日本文化全般を仏教の理念で基礎づける思潮を強めたことが注目される。[4]南北朝,室町時代・14〜16世紀にいたると,仏教文化の最盛期を迎える。五山の僧により朱子学など中国の学問の紹介も進められたが,むしろ能・生花・茶道・絵画など芸能の分野に顕著な成果がみられる。世阿弥の『花伝書』,雪舟の水墨画,さらには千利久のわび茶など日本の芸術理念の重要な要素となるものが,あいついで確立された。これらは仏教の理念に強く影響されて結実したもので,とくに僧が悟りを開くために厳しい修行をつづけることと,芸の完成を求めて苛酷な稽古を重ねることとのあいだには,たがいに照応し合う共通の精神的基盤がみられる。日本の学術の形成にも,こうした仏教文化の特質が長く尾を引くことはみのがせない問題であろう。16世紀半ばにキリスト教宣教師たちが来朝し,近代科学成立以前の西欧学術を初めて伝えたが,それもわずかなものにとどまり,最終的には徹底したキリシタン弾圧によりそれも根絶されて終わった。

【江戸時代17〜19世紀前半】徳川幕府の成立により,ようやく戦乱の時代が終わった。日本の学術が成熟し始めるのはこの時期に入ってからである。武家および庶民の文化活動が活発となり,それまでの宮廷・貴族中心の文化構造はすっかり姿を消してしまう。それだけ産業・経済など物質的生活の内容が,かなり広い国民的レベルで豊かになり始めたといえる。それとともに,動植物・鉱物などの見聞,つまり経験的知識もしだいに増加していった。農学・医学など生活に密着した技術分野が学問的成長をとげたことも,これと大いにかかわりあっている。学問の形成については,幕府が武家統治の政治的規範として朱子学を採用し奨励したことが,少なからず駆動力となった。これで漢文の読解力が急速に高まり,広い層の人々が初めて中国の原典を読めるようになった。ここでは幕府の強行した鎖国政策が予期せぬ役割を果たすことになった。確かに西欧からの学問の流入は極度に制限されたが,そのかわり中国に蓄積されていた学問的業績をつぶさに検討でき,そこから日本独自の学術を築き上げていくゆとりが与えられたのである。こうした中国の学問を素地にした自主開拓の努力が実績をあげていたからこそ,18世紀後半から蘭学をとおしてようやく流入し始めた西欧科学の知識も,順調に吸収することができた。学術形成のそのなりゆきを,自然学にかかわる分野ごとにたどっていくことにする。[1]儒学−中国で12世紀に確立された朱子学は,儒・仏・道・易と中国の古典的な学理を体系的に集大成したもので,理と気の根本概念にもとづく論述は東洋的な自然哲学としてもきわだった存在である。しかしこれが日本に受容されたとき,その精緻な論究の学問的方法に強く感化されたものの,理論体系そのものを継承することにさほど関心はもたれなかった。むしろ朱子学に学んだ方法を駆使して,自ら四書五経の中国古典を直接読み直す方向に進んだ。古学派と呼ばれる伊藤仁斎(1627〜1705)や荻生徂徠(1666〜1728)がその中心人物で,彼らにより日本の儒学は学問的に自立したといわれる。しかも彼らが唱えた実理の学は,自然学の動向にも大きな影響を与えた。[2]医学−古学派の主張に共鳴する立場から新しい医学の樹立を唱えたのが,名古屋玄医(1628〜96)・後藤艮山(1659〜1733)ら古医方派と呼ばれる医師たちである。彼らは,すでに16世紀以来導入されていた中国金元時代の李朱医学の陰陽論にもとづく繁雑な論法を排し,後漢時代の張仲景医学に立ちかえることを提唱した。理屈をのべるのではなく,病状を十分検証して,その病気を治すことに専念すべきだという。この主張はさらに吉益東洞(1702〜73)・山脇東洋(1705〜62)らに受け継がれて日本医学の自立を進めることになった。東洞は万病一毒論を唱え,病毒のありかを検証して適切な療法を施すことが医学の根本であると説いた。“医の学は方のみ”と断言し,医学の根本を実証的な治療術の確立に置いた。こうした経験的な術の完成をめざす学問的方法は,医学のみならず日本の自然学に共通してみられる特質の一つである。[3]算学・暦学−関孝和(1642?〜1708)が中国の算法に学び,数値方程式の解法を独自の論理で完成し,体積・面積の求め方をいっきょにレベルの高いところへ引き上げた。ここに日本の算学が樹立され,それが和算と呼ばれる独自の算法を広く根づかせる出発点となった。孝和も,算学の本質は理を説くことではなく解答の術を究めることにあると説き,医学と似かよった学問観をとっている。さらにできるだけ多くの難問を解いて解答術に磨きをかけることを推奨しているが,ここには16世紀以来,芸能界で強調されてきた芸を磨くという意識の投影もみられる。暦学については,渋川春海(1639〜1715)が中国の暦法に学び,貞享暦(1684年施行)を編み,800年以上もつづいた暦の狂いを是正したことが注目される。これ以後,幕府の天文方による改暦が重ねられ,さらには蘭学の知識も織り込んだ暦法の質的向上が進むことになる。[4]本草学・農学−貝原益軒(1630〜1714)が1709年(宝永6)に集大成した『大和本草』により,日本の本草学も自立した。本草学は薬草・食用動植物・鉱物などの百科全書的な分類記述を行う東洋的博物学といえるもので,中国では李時珍(1518〜93)が1590年(万暦18)に『本草綱目』を集大成していた。益軒もこれに学び,さらに日本固有の品種も十分吟味して全面的に補足し,彼独自の立場で総合し再類別を行った。益軒は見聞をとおして正確な物の知識を集めることを心掛け,その方法にもとづく学問分野を物集之学または物理之学と名付けた。この物理は,生物までを含めた物の理を意味するが,儒者としても活躍した益軒が,物に関する学問を積極的にもりたてたことは日本の学問史上特記されてよい。農学では益軒にも師事した宮崎安貞(1623〜97)が,1697年(元禄10)に『農業全書』をまとめた。これも見聞を尊重し全国の農法を実地に検分した上で整理し記録した。日本の農業もこのころからようやく,学問的裏付けをもつようになった。[5]窮理学・蘭学−オランダとの交易が学問分野にも顕著な実績をみせ始めるのは18世紀後半になってからである。原著の翻訳,あるいは訳者の意見を加えた訳述があいついで行われた。1774年(安永3)杉田玄白(1733〜1817)らの『解体新書』が刊行され,これはその後に加速される蘭医学導入のかわきりとなった。また本木良永の『天地二球用記法』(1792年訳述)は,志筑忠雄の『暦象新書』(1802年訳述)へと進み,ニュートン力学の概略がようやく紹介され始めた。窮理学と呼ばれるようになる物理学の分野が,ここに登場したわけである。しかしこれは独立した一科の学といえるものではなく,まだ医の基礎学として,生理学・生化学の初等知識にも重なりあうものでしかなかった。19世紀の前半期にいくつか記述された窮理書はすべてその類にとどまる。一方,このなりゆきとは別にとくに注目されるのは,三浦梅園(1723〜89)がその生涯をかけてまとめた『玄語』(1775年完結)である。易の陰陽論を梅園独自の構図によって組み直し,天地の条理を究明しようと望んだ。その自然哲学的論述は日本に類例の少ない思索力の結実をみせている。

【明治・大正時代】[1]19世紀後半,1854年(嘉永7)に開国,1868年(明治1)に明治維新。新政府は富国強兵・殖産興業をめざして西欧の文物を導入することに専念した。なによりも機械を購入し,日本人自身がそれを操作し得るようにすることが急務であった。それゆえこれまで最もなじみのうすかった理工学の受容には積極的であった。外国人の技師や教師を雇って指導させるとともに,日本人の海外留学も促進し,実地の学習をとおして新知識を会得させる方策がとられ,これは相当な効果をあげた。他方で教育制度の確立が望まれ,まず初等教育の整備をめざして1872年(明治5)に学制頒布がなされ,高等教育に関しては1877年(明治10)に東京大学・工部大学校などが設立された。1886年(明治19)に帝国大学令が公布され,東京帝国大学に改組されたころには外人教師にかわり日本人の教授陣で固められるようになった。西欧科学の導入もようやく一段落ついたことになるが,日本人自身の研究業績があがるようになるにはさらに数年を必要とした。1900年に京都帝国大学も設立され,このころから軽工業を中心に日本の産業革命も進展したが,これはもっぱら輸入した外国製の機械を使って実現されたもので,技術の自主開発力はまだ育っていなかった。こうした開国から明治期にかけての推移は,すべて政府の指導のもとに国家政策として進められた。帝国大学令にも〈国家の須要に応ずる学術技芸〉を育成すると表明されており,西欧の科学・技術もさしあたり国力を増進するための知的手段とみなされていた。したがって明治初期には実理・実学と呼ばれて,実証的な知識という意味をこめるとともに,役に立つ実用学という側面がより多く強調されていた。19世紀の後半といえば,西欧ではすでに産業革命が顕著な成果をあげており,科学・技術もそれぞれの分野に専門分化し理論的にも整備され始めていた。それゆえ日本人が各分野の専門知識を実用目的に合わせて個々別々に学ぶことも,18世紀までの実情に比べてはるかに容易であった。科学・技術の日本への本格的な導入がちょうどこの時期に開始されたことは,きわめて好運であったともいえる。だから日本人は,当時よく使われたことばでいえば“一科一学”を一つ一つ習得し,最後には“百科之学”の全体系を学びとるつもりで,努力の積み重ねをはかることができたのである。こうした各分野の動きのなかで注目されるものを2,3あげておく。医学の領域では,蘭学の蓄積もあり西欧医学へのたてなおしも順調に進んだ。細菌学においてドイツ留学中の北里柴三郎(1853〜1931)が破傷風菌の純粋培養に成功し(1889),また国内での最初の大きな業績として志賀潔(1870〜1957)の赤痢菌の発見(1897)などがあり,医学は最も早く学問的自立への道を進んだ。その反面,江戸時代に実績のあった漢方医学は,新医療制度化の枠外にとり残されて急速に衰退した。似たような推移をたどったのが和算であるが,単に捨て去られたというのではなく,すでに習熟していた計算術が橋渡しとなり,西欧数学の理解を容易にし得た点で少し事情が異なっている。物理学に関しては,学制頒布とともにわきおこった“窮理熱”が目をひく。蘭医学の基礎として導入されていた初等物理の知識が,義務教育の柱として庶民層にも人気を呼んだもので,明治初期の欧化政策の過渡的な様相をよく伝えている。物理学の本格的な研究のほうはむろん容易なことではなく,とりあえず身近な物理現象,重力や地磁気の測定・気象・天文などの研究から着手された。それでも北尾次郎(1854〜1907)の台風の研究(1887)や,長岡半太郎(1865〜1950)の磁気歪の研究(1890)などが発表され,異質な学問の受容も着実に進んでいた。[2]20世紀初頭−日露戦争(1904〜05)や第一次世界大戦(1914〜18)への参戦をとおして,日本の産業技術も急速に変貌した。重化学工業化が進み始めたことが,電気・機械・化学工業を促進し,日本の技術,その基礎としての科学もようやく自立の兆しをみせ始めた。1907年(明治40)に東北帝国大学が,さらに1917年(大正6)には理化学研究所が創立され,理工学の研究活動も勢いづいた。これに加えて,相対論や量子論など物理学の現代的変革を機に西欧でおこった科学の基礎を批判的に反省する思潮が日本にも伝わり,西欧科学の哲学的基礎や方法論を積極的に考察する気運を誘った。ここに初めて,精神的基盤までを考慮にいれた理論としての科学と,個々の実用的な成果の実現に専念する技術との分化が進展し,科学と技術という用語も定着して広く使われるようになった。日本人の研究業績もいまや世界的水準に並ぶものが続出し始めた。医学関係では,高峰譲吉(1854〜1922)のアドレナリンの発見(1900)が世界のホルモン研究の口火を切り,鈴木梅太郎(1874〜1943)のオリザニンの抽出(1911)がビタミン学説の先導行となった。細菌学では秦佐八郎(1873〜1938)がエールリヒ(Ehrlich,1854〜1915)とともにサルバルサンを発見(1909)して梅毒の治療法を開発し,野口英世(1876〜1928)がスピロヘータの純粋培養に成功した(1911)。数学では高木貞治(1875〜1960)が1920年に類体論を完成して,日本の現代数学研究を一躍高レベルに引き上げた。物理学においては,木村栄(1870〜1943)の緯度変化に関するZ項の発見(1902),長岡半太郎(1865〜1950)の原子模型の提唱(1903),本多光太郎(1870〜1954)らのKS鋼の発明(1917),さらには通信工学にもまたがる八木秀次(1886〜1976)の八木アンテナの発明(1975)と顕著な業績がつづいた。相対論・量子論に関しては石原純(1881〜1947)が研究を進めるとともに,現代物理学のいきとどいた解説を行い,次の世代を育てるのに大きな刺激を与えた。田辺元(1885〜1962)の『科学概論』(1918)が科学思潮の高揚に与えた刺激もみのがせない。1922年に世界的な物理学者としては初めてアインシュタイン(Einstein,1879〜1955)が来日し,それが熱狂的な相対論ブームをひきおこしたことは,科学にまつわる大正期の世相をよく表している。

【昭和時代】[1]前期(1926〜45)−明治以来の富国強兵策がさらに対外侵略策に拡大されて,満州事変(1931)・日中戦争(1937)・第二次世界大戦(1941)が次々にひきおこされた。国内資源の貧困と経済恐慌の重圧を打開しようとして,新植民地の獲得を策したのだが,計画性を欠いた無謀な軍事政策の強行は,まだ未成熟だった産業の推移にも大きな歪を残した。重工業化はもっぱら軍需工業の育成を軸にして進められ,科学・技術も国家総力戦体制を支える知能的な武器とみなされた。日中戦争開始後には,理工学の増進に過大な期待をかけた科学・技術ブームもおこり,1941年には日本で最初の国家的な科学技術政策といえる「科学技術新体制確立要綱」までが決定された。しかし,みかけ上の華やかさに反して,実質的な成果は遅々としてあがらなかった。机上の計画だけが先走り,研究資材の不足やなお研究者層の薄さがひびいて停滞し,戦局の悪化とともに最後は立ち消えになって終わった。第二次世界大戦の終結は,アメリカ軍による原子爆弾の投下という衝撃的な科学技術時代の幕明けとも重なり合っていた。爆撃で荒廃しきった日本では,アメリカ軍の物量作戦に圧倒されたあげく,敗戦は科学戦の敗北で招いたのだともいわれ,だから今後は科学立国をめざすべきだとも唱えられた。しかしこうした政策的な推移やそのなかでの気まぐれな政論的な判断とは別に,日本の科学研究は着実に進展していた。とくに数学・物理学・化学・生物学の基礎科学部門の充実は,戦後に開花する素地を築いたもので注目に値する。なかでも物理学研究の進展はめざましかった。西欧で1925〜26年に確立された量子力学が,当時の若い研究者たちに直ちに学びとられ,そこから日本独自の研究分野,中間子論の開拓が始まった。その導火線となったのは,1928年に長期滞欧の仁科芳雄(1890〜1951)が帰国したことで,彼の伝えたヨーロッパの活気に満ちた学風は,湯川秀樹(1907〜81)や朝永振一郎(1906〜79)らにそのまま受け継がれた。湯川は1935年に中間子仮説を発表し,その傍証がアンダーソン(Anderson,1905〜)によって与えられ,日本の中間子論研究はいっきょに勢いづいた。1942年には坂田昌一(1911〜70)らの二中間子論,1943年には朝永の超多時間理論が発表され,戦争下にもこれらの研究は最後まで活発につづけられた。つけ加えておかなければならないことは,中間子論だけでなく,ほかのいくつかの分野で基礎研究の活気ある動きが持続していたことである。[2]後期(1946〜)−日本にとって第二次世界大戦の敗北は第2の開国であったとよくいわれる。政治・経済・学問・文化いずれの面からみても,社会の動きは一変して国際化することになった。国家主義の枠のなかに固められていた明治以来の動向と同類のものとしてはもはや語ることができない。科学技術も世界の潮流に合わせて流動する傾向が強まり,政治経済的関連にもよりアメリカからの影響がことさら大きくなった。教育制度・医療・農業などの戦後改革はその代表的なものである。それにしても,敗戦直後の科学技術は,日本ではすべてがそうであったように荒廃の極にあった。実験設備はおろか計算用紙にもこと欠くありさまであった。1948年に湯川秀樹が日本人最初のノーベル賞を受賞したとき,敗戦以来の意気消沈もしばらく忘れて全国がわいたが,しかし研究施設はなお貧困のままであった。事情が全面的に好転し始めるのは,景気が上昇し始めた1955年ごろからである。巨大科学と呼ばれた原子力・宇宙科学や,自動制御機構・電子計算機にかかわるエレクトロニクスが政府のあと押しで精力的に開発されはじめるのもこのころである。国際的な動向を追うこうした大がかりな動きは,もはや“科学と技術”ではなく,“科学技術”時代の到来だといわれた。日本の学術研究の成果も国際的に承認されるものが増し,ノーベル賞湯川秀樹についで朝永振一郎(1965)・江崎玲於奈(1973)が物理学賞を,さらに福井謙一(1981)が化学賞を受けた。数学でも小平邦彦(1954)・広中平祐(1970)にフィールズ賞が与えられた。日本の科学も確かに高い研究水準に達したのだが,他方ではなお有能な研究者の層は薄いといわれている。1970年代からは,鉄鋼・自動車・電気機器など日本の工場製品が全世界に輸出されるようになり,経済摩擦も誘発しているが,その優秀な製品もほとんど海外から導入された技術に頼ったものにすぎない。新しい技術の基礎となり得る独創的な研究開発力が十分蓄積されるまでには,なおかなりの道のりが必要であろう。最後に科学技術そのものが置かれている現代の状況を展望しておこう。未来は必ずしも明るい面ばかりではない点が注意を引く。科学技術は本来,人類の幸せで豊かな生活を築くために開発されてきた。しかし現状ではその意図を裏切る要素も少なくない。老廃物や排気ガスが地球を汚染し,放射性物質が人命を脅かし,はては地球の破壊手段にもなっている。合成された新物質が思わぬ毒性をもち,遺伝子の組み替えによりどんな害悪が生じるのかも不安のままである。こうした実情は,科学技術が人類にとって,あるいは地球にとっていかなるものであるべきかを,根本的に反省し直す必要のあることを告げている。むろん日本の科学技術もその責を負わされているのであり,よき未来を開く上に貢献し得るようになることこそ重要な課題の一つであろう。

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