●科学革命 かがくかくめい
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近代科学の成立と,その背景にあった世界観の革新とをさしていう。この語は,イギリスの歴史家H.バターフィールドが,『近代科学の誕生」(1949)のなかで,1300年ごろから1800年ごろの500年間に,ヨーロッパでおこった“知的枠組”の変化が,キリスト教の誕生やルネサンスをも,単なるエピソードの地位におとしめるほど歴史的重要性をもつ事件であると強調して用いた。中世のキリスト教世界では,自然学は神学の下位におかれ,神学をスコラ哲学という形で理論的に体系化するために導入された古代ギリシアの哲学者アリストテレスの哲学が,自然学をも支配していた。同じように医学と宇宙論の分野では,ヘレニズム期の医学者ガレノスと天文・地理学者プトレマイオスの学説とが権威としてつねに参照されつづけた。こうしてキリスト教的に再解釈されたギリシア自然哲学が,教会と国家との後援を受け,大学教育を通じて知識人のあいだに浸透し,正統としての地位を与えられて知的伝統を形づくっていた。そこでは自然界のあらゆるものは,最も卑しく劣ったものから,最も神聖で崇高な存在である神にいたるまで,階層的な連続(存在の連鎖)のなかに位置づけられていた。存在の階層性という考え方は,宇宙構造にも適用されて,最も下等な天体である地球を中心に,最も高等な恒星天を最外郭とする,いくつもの天球が同心円状に重なり合った構造が考えられていた。そうした世界のなかで,物には本来あるべき場所があって,運動はその位置へもどろうとする,物自体の意志にもとづくものとする目的論的説明が行われた。一方,惑星の運行が人間の運命に影響するとする占星術に代表される魔術的自然観も大きな力をもち,天体と人体各部との照応理論を通じて,占星術は医学へも影響を及ぼしていた。科学革命の新しい“知的枠組”は,初めそうした自然学への部分的懐疑として発生したが,やがて統一されて,合理的・機械論的自然観として体系化され,西洋の新しい知的伝統を形成することになる。この新しい“知的枠組”の特徴は,次のように要約することができる。[1]空間は均質であって場所による差異はなく,すべての運動には同一の法則がはたらいているという仮定。[2]自然法則を発見する道具,それを検証する手続きとしての実験の制度化。[3]伝統的権威への懐疑と,観察・測定にもとづく客観的事実の尊重。[4]法則を最も単純な形で数学的に定式化しようとする志向。[5]知識の公開性と,科学者の協業にもとづく科学の全体的進歩への確信。このような“知的枠組”の変化は最終的に古い世界観を一掃しただけではない。それによって導かれた近代科学は,現実の自然現象とより緊密な関係をもっていたから,いったん得られた作用法則を,技術という形で方法的に有効に応用することが可能であった。イギリスの哲学者フランシス=ベーコンは〈知は力なり〉と力強く宣言している。科学革命に導かれた多くの技術革新は,近代ヨーロッパに産業面・軍事面での絶対的優越をもたらし,西洋による世界支配の重要な契機となった。【科学革命の過程】近代科学は,長い期間に多くの発見や新しい理論が徐々に統一されて,一つの体系へ形成されたものである。この変化は,単なる発見の連続や,科学知識の肥大的成長であったのではない。一つの知的革新が,過去における革新に新たな意味を与えながら,その過程全体が,世界観の革命的転換をせまるものであった。
地動説(太陽中心説)を例にとってみよう。中世に信じられていた天動説を排し,地動説を確立したのはポーランドの人,コペルニクスであったといわれる。太陽・恒星を不動とし.太陽を中心として地球と諸惑星が運行するという地動説自体は.古代ギリシアのアリスタルコスらによって唱えられていた。ルネサンスの古典復興の気運にあったイタリアに留学したコペルニクスは,そこで地動説にふれ,生涯を地動説の定量的証明に費やし,1543年に『諸天体の回転』を著した。しかし,コペルニクスその人にとっては,地動説は現実の宇宙構造の説明であるよりも,天体の位置推算のための,計算上の仮定であった。しかも,ルネサンス期の新プラトン主義哲学の影響下にあったコペルニクスは,神聖な円運動という観念にのっとって,真円軌道に固執したために,計算を観察事実と合致させるために,惑星の周転運動(中心が円周上を移動する回転運動)という,プトレマイオス天文学における仮定を,残さざるをえなかった。1609年に,ドイツのケプラーが,惑星運動の軌道が,太陽を一つの焦点とする楕円軌道であるという説(惑星運動に関するケプラーの第1法則)を発表し,周転運動を仮定することが不必要となった。こうして地動説は単純な運動法則に還元されて,宇宙構造の実体的説明に近づいた。ケプラーは,惑星の公転周期の2乗が太陽からの平均距離の3乗に比例すること(ケプラーの第3法則)を発見したが,自ら調和法則と名づけたこの法則は,宇宙の音楽的調和という神秘主義的着想に導かれたものであった。ケプラーの第3法則の力学的説明を行ったのがイギリスのニュートンである。ニュートンは,1687年の『プリンキピア』で,物体の運動に質量概念を導入し,天体の運動にも,地球上の物体の運動と同一の力学法則が作用していることを数学的に証明し,宇宙を一つの“機械じかけ”とする機械論的世界観のなかに,地動説を位置づけることに成功した。ニュートンの時代には,もはや地動説は,宇宙構造に関する事実として受け入れられるにいたっていたが,じつは,地球が公転するならば観測されねばならないはずの恒星の年周視差は,ニュートン以降も長いあいだ発見されることがなかった。それが,ドイツの天文学者ベッセルの,白鳥座61番星の観測によって確認されたのは,1838年のことであった。ここにいたって初めて,地動説理論は完璧なものとなり,コペルニクスによる地動説の発表が.近代的宇宙観の,ほんとうの意味での起点としての意味をもつことができたのである。恒星視差そのものの存在はコペルニクスがすでに予想していた。このように,科学の研究者集団に解決すべきあらゆる種類の問題を提示し,科学者の仕事が行われる際の,法則・理論・手法などに関して統一的見解を与える規範をパラダイムという。パラダイムを受容する研究者集団は,提示された問題を研究することによって未知の部分を充填し,誤りを是正する作業を行う。この過程で,パラダイム内にある限り解決することのできない事実が観測される。こうした矛盾・不備が蓄積されると,パラダイムの維持が困難になり,個人の画期的業績という形で新しいパラダイムが出現することになる。
科学革命は,きわめて長期間の過程であるが.1687年の『プリンキピア』によるニュートン力学の成立を頂点に,前後の約250年間,コペルニクスの地動説提唱から,1788年のラヴォアジェによる元素の分類・命名にいたる期間は,数多くのパラダイムが集中的に出現した時期で,この時期を世界史上の科学革命期と呼ぶことができる。同時にこの時期は,近代科学の新しい方法が提唱され,方法を可能にする科学機器の発達がみられ,科学の言語が確立し,専門科学者(職業科学者)が誕生し,正規の科学教育が開始され,科学者が組織化され,科学雑誌が定期刊行された時期と重なり合う。パラダイムの大量出現を支えたのは,このような科学の制度的固定化であった。
〔参考文献〕H.バターフィールド,渡辺正雄訳『近代科学の起源』1978,講談社
H.カーニイ,中山茂他訳『科学革命の時代』1972,平凡社
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