●雅楽 ががく
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日本に伝えられる宮廷楽舞。狭義には左右両部制における唐楽・高麗楽(こまがく)をいう。広義には催馬楽・朗詠・東遊・久米舞など,宮廷音楽の総称としても用いられる。雅楽とは「雅正の楽」の意味であるが,わが国へ伝えられたのは中国の純粋な雅楽,すなわち宗廟において奏する楽舞ではなく,隋・唐代に発展した宴饗の楽舞が中心であった。また,日本古代において「雅楽」をいわゆる雅楽として使用した例は少なく,多くは「雅楽寮」もしくは「雅楽寮の楽」を意味していたものと推測される。雅楽寮は7世紀後半に成立する律令制における治部省の管轄下にあり,ここでは日本古来の歌舞や外来の歌舞が教習されていた。『令集解』(りょうのしゅうげ)の引く大属尾張浄足(おおさかんおわりのきよたり)の説によると,古来の歌舞には久米舞・五節舞・田舞・倭舞・楯臥舞・筑紫諸懸舞(つくしむらかたまい)・大歌・立歌などがあり,外来の楽舞には唐楽・高麗楽・新羅楽・百済楽・度羅楽などがあった。古来の歌舞とは国内の各地に伝承されていたもので,これらには天武朝に集中化され教習されたものと,大和朝廷の統一過程において服属し,いわゆる服属儀礼として,朝儀の場で奏されたものとがあった。外来の楽舞はおよそ5世紀の半ばごろに新羅楽が伝来したのを始めとして,百済楽・高麗楽・唐楽・渤海楽・林邑楽・度羅楽などが次々に招来された。また,これらとは別に,歌舞所(うたまいどころ)や大歌所(おおうたどころ)が設置され,古来の歌舞の教習が行われた。平安時代に入ると,嵯峨仁明朝に楽制の改革が行われ,楽器の縮小整備などがすすめられる。また,このころ衛府の音楽への参加によって,従来の唐楽・林邑楽などを左方唐楽とし,高麗楽・新羅楽・百済楽などを右方高麗楽とする左右両部制が成立する。こうして雅楽はしだいに皇族や貴族によって好まれるところとなり,天皇が参加しての音楽の遊びである御遊(ぎょゆう)など朝儀での奏楽がきわめて頻繁に行われるようになる。こうしたなかから貞保親王や源博雅などの名人が輩出した。平安中期には,多・狛・大神(おおが)・豊原などの楽家が形成される。彼らは朝廷や寺社の楽所(がくそ)に補任され,その芸術は子々孫々に伝承されていくようになる。しかし,このころから宮廷などにおける儀礼や御遊なども形骸化し,しだいに衰退していくことになる。また,平安末期にかけて,猿楽・田楽・白拍子・今様などの歌舞が民衆のあいだで成長し,都鄙でも行われ,貴族のなかにも,これに注目し夢中になる者も現れる。この傾向は武家政権の成立によって,いっそう激しくなり,とくに15世紀後半の応仁の乱においては都は焦土と化し,多数の楽人たちが離散する,このような雅楽の衰退を嘆いて,鎌倉時代には狛近真によって『教訓抄』が,室町時代には豊原統秋の『体源抄』が著される。これらは江戸時代の安倍季尚による『楽家録』とともに3大楽書とされ,当時の雅楽を知るうえで貴重な資料となっている。応仁の乱後は,皇室の儀礼などにも事欠くようになり,その衰退ははなはだしかった。これを復興したのは,豊臣秀吉と徳川家康であった。とくに家康は,3方楽所と称された京都方・南都方・四天王寺方の楽人を集め,彼らを京都と江戸に配し,催馬楽を復元するなど,その復興につとめた。京都に配された楽人を「御所の楽人」江戸に配された楽人を「紅葉山楽人」と称した。江戸時代には,大名や儒家のなかでも雅楽を愛好する者が現れ,その伝統はようやく保たれていった。明治時代に入ると,宮内省に雅楽局が置かれ,ここに「御所の楽人」と「紅葉山楽人」が集められ,皇室の儀式に奏楽をつかさどった。第二次世界大戦後も宮内庁雅楽部によって,その伝統は保持されている。また近年とみに民間人の雅楽への理解,あるいは参加がみられ,また雅楽は世界的にも芸術音楽としてきわめて高い評価を受けつつある。〔参考文献〕林屋辰三郎『中世芸能史の研究』1960,岩波書店
荻美津夫『日本古代音楽史論』1977,吉川弘文館『音楽大事典』1982,平凡社
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