50音順    検 索

●カイロ

アフリカ エジプト・アラブ共和国 AD 

 ミスル=アルカーヒラ略してミスルまたはカーヒラとも呼ぶ。ミスルは同時にエジプトの意味ともなる。千年以上にわたってエジブトの首都。中東・アフリカでは最大の都市でもある。近年の人口増加は著しく首都圏全体では700万に及ぶ。市街の大部分はナイル河と市の東端にあるモカッタム山とのあいだにひろがるが,この10年あまりは西岸地区の都市化が著しい。大まかには19世紀なかばから発展した地区は近代西欧風の様式が生活と建築や社会関係に認められているが,その前からの地区には中世的なともいいたい雅びなアラブ=イスラーム文化の濃密な様式が生活や居住に名残りをとどめ,過密と窮乏のなかにもおおらかで陽気な近隣関係が息づいている。いわば両極端の混在する活気と活力に満ちた都市がカイロである。中世いらいの市街区にはイスラーム文化の歴史的遺産やモスク・廟・墓碑・城門・宮殿が約600もあるが,それらが人々の日常生活と乖離することなく,特有の雰囲気を醸成している。それは西欧人にはカイロが〈東方〉世界への入口と見える東・西両洋の文明が重層的に構成するこの都市のユニークさである。19世紀なかばからカイロが中東・北アフリカでは最重要な政治・経済の拠点であったことにそれは負うところも大きい。しかし,住民にはギリシア系・アルメニア系のほかにセム系・ハム系の諸人種も混じり,英・仏・伊の諸国人も小さくない集団をなしていることにもよる。首府として行政の中心であり,最高裁判所以下の司法機関・アラブ連盟本部をはじめとする外交団の活動も活発である。また,ローマ=カトリック,コプト教会の大司教座がありギリシア正教やアルメニア教会の重要な職位もおかれていて,イスラーム色ではない宗教生活とその国際性を物語っている。

 学術と教育でもアルアズハル学院は最古・最大のイスラーム教学の中心(970年創立)で,全世界から学生を集めているし,8万冊におよぶ貴重な文献所蔵で知られている。そのほかに中東・アフリカ最大の近代的な総合大学であるカイロ大学(旧ファド大学1908〜)と生気に溢れるアイン=シャムス大学(1950〜)が国立大学としてそれぞれ3万と1万の学生をもっている。アメリカ大学のほかに英・仏の高等教育・研究機関も考古学から医学までの広い分野にまたがる活動で,中東・アフリカの諸国や研究者や社会主義圏からも留学生を集めている。

この20年ほどのあいだに工業化がすすみ,綿織物・タイル・煙草・アルコール類・セメントなどの工場がふえ,近郊のヘルワンには製鉄所もできているし,ライセンス生産ながら国産乗用車もできるようになった。銀行とならんで,各国の航空会社も支店をもち,中東各国やアフリカ路線の連絡拠点になっているし,国内線も発達している。さらにカイロは厚いインテリ層をもつので中東・アフリカの情報・通信・出版の基地として発達してきていて,アラブ語のほかにも英・仏語の新聞と放送とが利用できる。あまり知られていないことではエジプトは,インドとともに,世界有数の映画製作国・輸出国だということである。文芸活動もカイロが中心で水準も高く,アラブ文学の伝統の王座を占める詩はもちろんのこと,小説の分野でもノーベル賞侯補にもあげられた作家もいる。

 カイロの語源が示すように,この都市はアラブ=イスラーム軍の征服地として現在の南端部から発展してきたが,その場所フスタートはギリシア人がバビロンと呼んだ城塞であった。641年に征服したものだが,最初のアラブ軍駐屯都市フスタートは司今部の「テント」のあった場所で今日にその原形は伝わらない。北にむけて発展したあとウマイヤ朝が亡びて750年に破壊された。アッバース家はさらに北へ居所を移して,名残りのモスク(イブン=トゥールーン)を今に伝える。ファーティマ朝治下でカイロと命名されるようになり,頂点を迎える。19世紀なかばから近代化が始まり,アフリカの一角に西欧なみの大都市が植民地化のもとで発展した。それが1952年の革命で転機をむかえた。

01

02