●開国 かいこく
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ふつう鎖国に対して,幕末維新期に日本が西洋の資本主義国家に迫られ,国交・貿易を開いたことをいう。アメリカ使節ペリーの来航が契機となった。【外国艦船の来航】すでに1792年(寛政4)ロシア使節ラクスマンが蝦夷(えぞ)地の根室に,1804年(文化1)同じくレザノフが長崎に来航し通商を求めたが,江戸幕府は拒絶した。イギリスはじめ西洋諸国は原料と市場を求めてアジアに進出し,また太平洋での捕鯨業が盛んになる。英船が沿岸に出没すると幕府は異国船打払令を諸大名に発した。日本の漂流者を送り返しながら通商を望む方法がとられたが,1837年(天保8)漂民を乗せた米船モリソン号は浦賀などで打ち払われて去った。この事件後に高野長英や渡辺崋山が幕府の対外策を批判して弾圧された(蛮社の獄)。アヘン戦争(1840〜42)での清国敗北の情報は日本に伝わり,1842年(天保13)打払令をゆるめ薪水給与令を出した。1844年(弘化1)オランダ国王の開国勧告(シーボルト起草)を幕府は謝絶して〈祖法〉を守った。1844〜46年(弘化1〜3),琉球にイギリス・フランスの艦船が来航して通交や布教を求め宣教師を残留させ,薩摩藩から事態を幕閣に報じ,島津氏は措置を委任された。アメリカは捕鯨業と中国貿易のため,遭難船員の救助や石炭補給にも日本の開港を必要とし,1846年(弘化3)ビッドルが浦賀に来航したが,幕府は通交を拒否した。こうして1853年(嘉永6)には,オランダ商館長の情報のとおり,ペリー艦隊の黒船4隻が浦賀湾頭に現れた。
【開港への過程】琉球と小笠原の占領さえ意図した米使ペリーは,強い態度で大統領の国書を幕府に受け取らせた。老中阿部正弘は事情を朝廷に報告し,諸侯に対策を上申させ,それ以後,国内に開鎖の論がおこる。1854年(安政1)再来したペリーは日米和親条約を結び,下田・箱館を開港させた。吉田松陰は米船での海外密航を企て失敗し,開国論者の佐久間象山も連座した。ペリーは帰途に米琉柔約を,また露使プチャーチンは日露和親条約を結ぶ。1856年(安政3)アメリカ駐日総領事ハリスが下田に着任し,江戸に出て老中堀田正睦に世界の大勢を説き,開明派の岩瀬忠震らと通商条約の交渉をすすめ,清国がアロー戦争で英仏軍に屈服したとの報を得ると幕府に調印を迫り,1858年(安政5)大老井伊直弼は朝廷の許可を得ないまま日米通商条約に調印し,オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ(安政五カ国条約,不平等条約)。翌年,神奈川(横浜)・長崎・箱館の3港が開港され外人居留地が設定されることとなった。
【開国と攘夷】貿易の開始は国内経済に変動を及ぼし,製糸業など輸出産業ではマニュファクチュアが発展し始めるが,金貨が流出し,物価が高騰し,攘夷派の反感を招いて外人や商人を殺傷する事件が発生した。1860年(万延1)老中安藤信正は条約批准のため最初の海外使節をアメリカヘ,また新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市の5カ年延期談判に1862年(文久2)ヨーロッパ各国へ使節を送り,見聞を広めさせた。この間1861年(文久1)ロシア軍艦が対馬を一時占拠する行動に出た。1863年(文久3)長州藩は攘夷を実行し下関海峡で外船を砲撃した。生麦事件の報復に同年イギリス艦隊は鹿児島を砲撃,翌年イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4国連合艦隊は下関を攻撃し砲台を占領したが,幕府は下関開港よりも償金支払いのほうをとった。薩摩・長州両藩は西洋との接触を体験すると開国政策をすすめ,イギリスと接近し,商人グラバーの斡旋で留学生を送り出し武器を買い入れ,のち倒幕派の主力となる。1865年(慶応1)外国艦隊の摂海進入は,条約勅許を導き,のち兵庫開港も勅許。安政以来の違勅調印問題は解消し,朝廷も開国政策を承認した形となった。1866年(慶応2),学術・商業のための海外渡航を許可したが,幕府は1862年(文久2)すでにオランダ留学生を派遣しており,のちイギリス・ロシア・フランスにも送る。蕃書調所では洋学教育と翻訳出版がなされ,横浜・箱館・長崎にも洋学機関を置いた。来日した宣教師は禁教下で語学・医療を事とした。
【新政府と開国和親】フランスのロッシュ公使が支援した幕府も,1867年(慶応3)将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上したが,外交の任はつづけようとした。1868年(慶応4)鳥羽伏見の戦いに勝った新政府は兵庫で勅使から王政復古の国書を外国使臣に伝達し,同時に国内にむけて開国和親を布告した。この前後に発生した備前藩兵による神戸事件と土佐藩兵による堺事件は,ともに藩兵と外国兵との衝突事件で,新政府の外交には試金石となるが,当局者は万国公法(国際法)にもとづく方針で解決した。イギリスは京都で参内途中パークス公使一行が攘夷派に襲われて天皇の謁見が遅れたが,のち女王の信任状を呈し新政権を最初に承認した。1873年(明治6)岩倉使節団の出張中,政府は禁教の高札を撤廃して,キリスト教黙認の形になった。文明開化の風潮に攘夷思想はしだいに影をひそめる。1876年(明治9),日本は逆に朝鮮の開国を西洋列国に先んじて実現させた。
〔参考文献〕石井孝『日本開国史』1972,吉川弘文館
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