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●開元天宝時代 かいげんてんぽうじだい

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 中国の唐の玄宗皇帝(李隆基)の治世。開元(713〜741)と天宝(742〜756)の44年間。玄宗の登場に先立つ数十年間は,第3代高宗の皇后であった則天武后の権力奪取(武周),中宗の皇后韋氏とその娘安楽公主,さらに武后の娘太平公主らの政治介入という,中国史上まれにみる女性優位の時代であった(武韋の禍)。こうした時期に父睿宗の譲りをうけ,28歳で帝位につくことになる玄宗は,まず前もって韋氏一派を,ついで即位直後,太平公主を相ついで倒して,女性専権に終止符をうち,皇帝親政のもと政治の刷新,民生の安定に着手した。当初これを宰相として助けたのが,姚崇(ようすう)・ソウエイ※注1※らの科挙出身の官僚であり,そこに太宗(唐)の「貞観の治」と並び称される「開元の治」の盛世をみた。首都長安(現西安市)は,戸数30万,人口100万人を超え,東は日本(奈良朝)や新羅(しんら),西はイランや西域などからの使節・留学生(僧)・商人が行き交い,当時世界第一の国際都市としての活況を呈した。ちなみに740年(開元28)の統計によると,全土で戸数840万余,口数4,814万余にのぼったという。2大詩聖として著名な李白・杜甫,詩人にしてかつ画人で,南画の祖と仰がれる王維,その友人で田園詩人の孟浩然(もうこうねん)ら多くの文人が活躍したのもこの時期であった。このように表むきは「大唐の春」を謳歌する一大盛世が現出したわけであるが,その一方,唐創始以来100年をへて,社会の矛盾・動揺はいっそう進行し,それにいかに対処するかが焦眉の問題となっていた。とりわけ武后期ごろより目立ちはじめた逃戸は,農民を田土に緊縛することを前提にして成立しえた均田制租庸調制府兵制をマヒさせ,唐朝の根幹を揺がすものと意識された。そのため宇文融は,721年(開元9),戸口把握を求めた括戸政策を提起,一時80万余戸の客戸(本籍地を離脱した農民)の再把握に成功するが,大勢を変えるにはいたらず,逆に残された農民への過重な負担を強いる結果となった。こうした逃戸はまた,農民を拠りどころとする府兵制の存続を困難にさせ,地方防衛を目的とした団練兵(団結兵)が,府兵に代わって全土に布置され,首都警備のためにカッキ※注2※兵が新たに設けられた。さらに辺境防衛では,トルコ族突厥(とっけつ)を初めとする諸民族が興起して,それまでの都護府による覊縻政策が破綻したため,防衛線の長城ぞいにまでの後退と,強大な軍事権をもつ節度使(藩鎮)の配置が必要となった。そこにおける兵力も,府兵が防人となって勤務する形から長征健児制に転換され,節度使独自の私兵(傭兵)も容認された。これら内外の兵制をめぐる改革を通して,府兵的徴兵的あり方に代わるものとして,募兵制が強く意識された。ところで,こうした玄宗朝下の政策の立案・実践に直接かかわったのは,宇文融らの北朝系名門出身者であり,最初国政を担った科拳官僚はしだいに圧倒され,ついに李林甫によって政界から一掃された。唐の王室の流れをくみ,〈口に蜜あり,腹に剣あり〉と恐れられ,玄宗朝後半期の19年間を宰相としてあった李林甫は,おりしも玄宗が政治にあき,傾国の美女楊貴妃との愛欲生活に全てを忘れるなかで,権勢を振ったのであった。その間彼が自己の基盤の安定を求めて,節度使に異民族出身の武将を起用する策をとったことが,民政の安定をはかる安禄山の台頭を許し,一方,楊貴妃の一族として新たに楊国忠が活動する途をひらいた。この両人は,ともに玄宗楊貴妃にとり入って昇進を果たすが,李林甫の死後,ついにその恩寵をめぐって衝突するにいたり,安禄山を反乱へと決起させることになった。この時期の政治は,そうした個人的な関係を軸にして展開したことによって特徴づけられる。755年(天宝14),安禄山は20万人の兵力で幽州(北京付近)に決起,一挙に洛陽・長安に攻め入った。玄宗は四川に逃れ,楊貴妃は殺され,かくてその栄華は終わりを告げ,唐はここに様相を一変させることになった。

〔参考文献〕E.G.プーリーブランク「安禄山の叛乱の政治的背景」上・下,東洋学報35−2・3,1952〜1953

石田幹之助『長安の春 増訂版』1967,東洋文庫,平凡社

藤善真澄『安禄山と楊貴妃−安史の乱前後』1972,清水書院

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