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●海峡植民地 かいきょうしょくみんち

ヨーロッパ 英国 AD 

 ペナン・マラッカ・シンガポールからなるイギリスの植民地。18世紀以来イギリス東インド会社は,フランス・オランダなどのヨーロッパ勢力に対抗するためにインド以東でイギリス海軍が自由に使える軍事基地獲得を考えていた。また当時急速に発展しつつあった中国との貿易のため,インドと中国との中間に中継基地をつくることに迫られていた。ケダーのスルタン=ムハンマドがマドラスのジョーダン=サリヴァン=デ=スーザ商会の社員フランシス=ライトに軍事援助と交換に貿易基地を提供することを申し入れて来たのはちょうどこのような時期であった(1771)。当時ブギスとシャムの攻撃に悩まされていたスルタンはイギリスの軍事的保護を求めていた。交渉はスルタンと東インド会社のあいだで行われたが東インド会社は軍事介入を嫌って交渉は成立しなかった。1786年交渉が再開され,フランシス=ライトはスルタンを説得し,1786年にペナンを占領,その領有を宣言した。そしてペナンをプリンス=オブ=ウェールズ島と名づけ,その港をジョージタウンとした。イギリスがケダーに武力援助を与える意志がないことを知りスルタンはペナンの返還を求めるが失敗,1791年に東インド会杜にペナン島を割譲,さらに1800年にはペナンの対岸ウェルズリー地方を割譲した。こうしてイギリスはマレー半島における最初の植民地を獲得した。マラッカ王国は15世紀のマレー半島で最も繁栄をきわめ,東西を結ぶ中継貿易の中心であった。しかし1511年ポルトガルの攻撃によって滅亡,マラッカはポルトガルの支配下に置かれる。17世紀に入ると,オランダはバタヴィア(ジャカルタ)を根拠地にしてマレー半島の支配をめざし,数回にわたってマラッカの奪取を試みる。1641年マラッカはオランダの手に落ちるが,その支配は遠いヨーロッパでおこったフランス対イギリス・オランダの戦争の結果,突然終焉を迎える。1795年のフランスによるオランダ占領後,オランダのウィリアム5世はイギリスに亡命。1795年東方におけるオランダの領土がフランスに奪われることを防ぐために,その全領土をイギリスに引き渡すことを宣言した。イギリスは直ちにマラッカを占領し,イギリス人の駐在官を任命した。イギリスのマラッカ支配は,オランダにおけるフランス支配の崩壊およびオレンジ王家ウィリアム=フレデリックの即位宣言,その結果1814年に締結された英蘭協定によって終わる。1818年にマラッカはオランダに返還された。.当時ペナンの東インド会社の社員であったスタンフォード=ラッフルズはマラッカ返還に際して,ペナンはインド・中国間の貿易路からあまりに離れているため,マラッカに代わる根拠地をもたない限りオランダに対抗することができないと主張,インド・ペナンの東インド会社の反対を無視して1819年1月29日シンガポールに上陸した。シンガポールの領有は法的には,ジョホール王国で実権を握っていたブギスのかいらいであったスルタン=アブドゥル=ラーマンの承認が必要であった。しかし,オランダの影響下にあるスルタンの承認を得ることは不可能であった。ラッフルズはスルタンの異母兄トゥンク=ロングをジョホールのスルタンに即位させて,彼と条約を締結することによってシンガポールを獲得した。1824年,イギリスとオランダは東南アジアをマラッカ海峡をもって2分し両国勢力圏とした。こうしてマラッカは再びイギリス領にされ,1826年東インド会社はペナン・マラッカ・シンガポールを合わせて海峡植民地と称し,政庁はペナンに置かれたが,これは1832年にシンガポールに移された。その後海峡植民地は1858年東インド会社の廃止により,ロンドンのインド省に管轄を移され,さらに1867年に海峡植民地は直轄植民地(Crown ColonY)となって植民省の所轄となる。第二次世界大戦中の日本軍政期をへて,1957年マラヤ連邦完全独立,1959年シンガポール自治国成立をもって海峡植民地はその歴史を閉じる。海峡植民地はイギリスの東南アジアにおける帝国主義的侵略・収奪の根拠地になると同時に,マレー半島全体に影響を与えるような文化・政治・経済の重要な拠点としての役割をにない,近代化に重要な役割を果たした。

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