●絵画(日本) かいが
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【総説】日本の絵画は原始時代から現代までを通観すると,2,000年にも近い歴史をもつ。まず全体的な特質を挙げると,[1]日本は地理的関係からいっても外国美術の影響を受けやすい国である。絵画の大きな転換期にはつねにこうした現象(飛鳥・奈良や鎌倉・室町は中国・朝鮮,江戸後期・明治は西洋)が顕著にみられる。[2]このような状況にありながら反面,日本の絵画は一貫した独自性をもつ。とくに表現上の特性である情緒性・平面性・装飾性は絵画のスタイルが変わっても保持される。以上の2通りがある。【原始時代】日本の絵画は弥生時代(前3世紀ごろ〜3世紀中ごろ)の銅鐸や土器片に線描きされた素朴で簡潔な生活図から始まる。古墳時代(3世紀中ごろ〜6世紀中ごろ)には九州や関東の一部に原始的な彩色壁画をもつ装飾古墳がある。これらは原始絵画に属すもので,のちの絵画とは直接の関係はないが,日本の絵画の源流として重視される。
【飛鳥時代】538年(宣化3)ごろ〜644年(皇極3)ごろ 現代の日本画に繋がる新しい絵画技法はすでに古墳時代に朝鮮から伝えられている(雄略天皇代に百済より画部因斯羅我がくる)。この傾向は飛鳥時代の仏教美術を初めとする大陸文化の導入とともにさらに高まる(崇峻天皇時代に画工白加がくる。さらに推古天皇代には高麗僧曇徴が絵・彩色・墨の製法を伝えた)。遺品には法隆寺の「玉虫厨子台座絵」や「天寿国繍帳」ぐらいしかないが,渡来人系の画家集団(黄書画師・山背画師・簀秦画師・河内画師・楢画師)が宮殿や寺院の造営に従事しながら新しい絵画を畿内に定着して行ったことは十分に想像しうる。
【奈良時代】645年(大化1)ごろ〜793年(延暦12)ごろ この時代の前期(645年ごろ〜709年ごろ)は藤原京の造営を中心に展開した。たび重なる都城や寺院の造営によって絵画の需要が急増したことは大宝期の画工司の設置が証明しているが,同時に重要なのは初唐の明るく健康的な美術が入ってきたことである。遺品では「法隆寺金堂壁画」と「高松塚古墳壁画」が双璧だが,ここに見られる初々しいが的確な画技には新技法を消化し切った画工司の画家の存在が想像される。盛期(710年ごろ〜793年ごろ)になると,都が奈良に移り,国際性のある盛唐の理想主義の美術に追随して平城京を初め東大寺や西大寺に代表される大寺院の造営が末曽有の規模で行われた。まさにこの時代は日本の古代古典期の美術が展開した時代である。遺品は数少ないが,天平の華麗さを十分に伝えてくれる。仏教絵画では「絵因果経」のような古い六朝の画風を遺すものもあるが,大仏蓮弁に彫られた毛彫の「仏菩薩」・正倉院の「麻布菩薩」・ボストン美術館の「法華堂根本曼荼羅」・薬師寺の「吉祥天像」などにはいずれも盛唐の理想的な写実表現がみられる。世俗画では正倉院の樹下にたたずむ豊満な唐美人を描いた「鳥毛立女屏風」や西域の雰囲気を伝える「騎象奏楽図」(中国製か)などがあり,ほかに工芸品の装飾画に国際色豊かな絵画資料があるのも注目される。
【平安時代】794年(延暦13)ごろ〜1184年(元歴3)ごろ 前期(794年ごろ〜986年ごろ)はまだ中国趣味の旺盛な時代だが,絵画史で重要なのは最澄,空海らによる密教美術の導入である。密教絵画では両界曼荼羅として「高雄曼荼羅」や「真言院曼荼羅」があり,単独像として西大寺の「十二天図」,園城寺の「黄不動像」,高野山の「五大力菩薩像」などがあり,ほかに肖像画としては空海将来の「真言五祖像」にならった「龍猛・龍智像」がある。この時代の絵画はまだ唐の影響が強いが,とくに単独像にみられる神秘的・威圧的な雰囲気はこの時代特有のものといえる。後期(987年ごろ〜1184年ごろ)になると,いわゆる国風文化がおこり,絵画も平安貴族の趣味に合ったローマン的で繊細華美なものとなり,仏教絵画は藤原仏画という黄金期を迎え,世俗画はそれまでの唐絵に対して大和(倭)絵という日本独自の絵画様式が生まれる。藤原仏画は10世紀の「醍醐寺五重塔壁画」で和様化が進み,11世紀の「鳳凰堂扉絵」や高野山の「仏涅槃図」などで穏やかでしかも豊麗な最高級の仏画になる。さらに12世紀になると教王護国寺の「五大尊像」,「十二天図」や高野山の「阿弥陀聖衆来迎図」のように耽美的なものになるが,いずれにしろ藤原仏画はほかの時代にはみられない名品優品ぞろいである。次に大和絵については発生はすでに前期の9世紀後半にみられ,和歌と結び付いて日本の風物を描き始める。しかし遺品はほとんど院政期(12世紀)以降のもので,女絵の「源氏物語絵巻」や男絵の「信貴山縁起絵巻」やその中間型の「伴大納言絵詞」などの絵所絵師の制作と推定される作品が代表的なものである。また絵巻物で絵仏師が描いたと思われる「鳥獣戯画」もあり,このほかに「三十六人歌集」「平家納経」「扇面古写経」などの豪華な装飾的作品もみのがせない。
【鎌倉時代】1185年(文治1)ごろ〜1333年(正慶2)ごろ 鎌倉時代の絵画は現実主義的な時代精神を反映して理性的・写実的になったのが特色である。絵画史の上ではとくに重視すべきは中国から第2の波として新たに入ってきた宋元画の写実性であり,これがこの時代の絵画の方向を決定づける。仏教絵画では浄土教絵画,とくに来迎図か流行する。すでに平安時代に作例はあったが,この時代では禅林寺の「山越阿弥陀図」や知恩院の「早来迎図」のように現実的・説明的になる。極楽地獄をテーマとした「六道絵」「十界図」「十王図」もこの類である。次に宋画の影響の強い仏画では教王護国寺の詫磨勝賀筆「十二天図屏風」や高山寺の「仏眼仏母像」があり,前者は肥痩の強い墨線に,後者は図様にそれが現れている。またこの時代は説話性のある仏画として「普賢十羅刹女図」や「渡海文殊図」が描かれた。垂迹画は本地垂迹説によってつくられた神道の絵画である。この時代に春日・熊野・山王・八幡などの本地仏曼荼羅や宮曼荼羅が描き始められたことも注目される。鎌倉時代は前代に増して絵巻物が数多くつくられた時代である。源氏の系統を引く物語絵巻では「紫式部日記絵巻」,寺社縁起では「北野天神縁起絵巻」「春日権現霊現記絵巻」,高僧絵巻では「華厳縁起絵巻」「東征絵伝」「一遍上人絵伝」「法然上人絵伝」,六道絵巻では「地獄草紙」「餓鬼草紙」「病草紙」,合戦絵巻では「平治物語絵巻」「蒙古襲来絵詞」など。いずれも鎌倉的なリアルな表現に特色がある。最後にこの時代は俗人の肖像が描かれ始め,似絵という速筆の独特の写生法が生まれた。神護寺の「源頼朝・平重盛像」は大和絵肖像画の名品であり,水無瀬神宮の「後鳥羽上皇像」は似絵の優品である。
【室町時代】1334年(建武1)ごろ〜1572年(元亀3)ごろ,室町時代は中国から入ってきた新様式である水墨画が絵画の主流となった時代であり,ここにいたって日本の絵画は古代・中世の宗教の束縛から解き放され,初めて近世の純鑑賞絵画への道を歩き出す。水墨画は当時の中国文化の紹介者であった禅僧によっておもに導入されたので,日本のそれは禅宗社会のなかで発生展開する。14世紀には黙庵・可翁・鉄舟・愚渓らの禅僧画家や良全・栄賀などの絵仏師系の画家が出て初期の道釈人物画や花鳥画を描き始める。15世紀初頭に東福寺に明兆,相国寺に瓢鮎図を描いた如拙という専門画僧が出るにいたって,水墨画は足利将軍家の庇護のもとに隆盛し,このころから山水画の全盛期を迎える。周文は如拙の弟子で幕府の御用絵師となり,馬遠・夏珪様を基礎として情緒的な日本的な山水画をつくりあげる。周文に継いで御用絵師となるのが小栗宗湛で,その子の宗継と「養徳院襖絵」を描く。一方幕府の唐物奉行をつとめた能阿弥・芸阿弥・相阿弥という父子3代の阿弥派の画家は牧谿様を中心にかなり自由な画風の作品を遺す。関東派の祥啓は芸阿弥に学んだ画家である。このほか14世紀前半に朝鮮から来朝した李秀文を祖とするといわれるかなり癖の強い画風を特色とする曽我派は大徳寺と関係しながら墨谿・夫泉宗丈・紹仙・宗譽と代々つづく。周文系の画家では文清・天遊松谿・岳翁などが忠実にその様式を守っているが,そのなかでも最も優れたのは雪舟等楊である。雪舟は周文に学んだのち,入明して帰国後は山口を中心に活躍するが,代表作の「山水長巻」はまさに山水画の頂点といえる。その弟子に宗淵・秋月・周徳・等春らがいるが,いずれも師の画風を追随しただけ。むしろ私淑した雪村に強烈で素晴しい作品がある。この時代はまた狩野派が出現したことが重要である。その祖狩野正信は穏やかな画風だが,その子の狩野元信にいたって和漢融合の日本的漢画をつくりあげ,同時に狩野派の地盤を築いたことが注目される。この時代の大和絵はあまり振わず,むしろ水墨画の影響を受けるが,土佐光信や土佐光茂が出て室町的な絵巻物を遺しているのは留意すべきである。
【桃山時代】1573年(天正1)ごろ〜1614年(慶長19)ごろ 桃山時代は織田信長や豊臣秀吉らが活躍した英雄の時代である。絵画も彼らの気風に合った豪華な金碧障壁画や再び訪れた太平を謳歌する風俗画がこの時代を代表する。この時代の障壁画の特色は雄壮さであるが,これをつくり出したのが狩野永徳である。彼は元信の孫で,若年の聚光院の「花鳥図襖絵」で巨大な樹木表現に成功し,さらに「唐獅子図屏風」や「檜木図屏風」でこれを完成する。永徳の出現によって狩野派は画壇の主導権を握り,彼のあとには弟の宗秀や子の光信,弟子の山楽らの活躍がみられる。このほか雄偉な建仁寺の「水墨襖絵」を描いた海北友松,豪華な智積院の「楓図襖絵」で有名な長谷川等伯,雪舟の流れをくんだ雲谷等顔らもいかにも桃山らしいスケールの大きな画家として忘れられない。風俗画はおもに狩野派の画家がたずさわり,ようやく到来した太平の世を楽しむ庶民を洛中洛外・野外の遊楽・祭礼という形で健康的に描いたものが多い。代表作は狩野永徳筆「洛中洛外図屏風」,狩野秀頼筆「高雄観楓図屏風」,狩野内膳筆「豊国祭図屏風」円満院や名古屋城の「風俗図襖絵」がある。また西洋人渡来の様子を描いた南蛮屏風もこれに属す。この時代はまた西洋文化が一時期だが日本に入りこみ洋風画というかつてなかった絵画が生まれた。洋風画にはキリスト教の布教のための聖画と異国趣味を満たすための王侯図・奏楽図・都市図のような世俗画があるが,ともに日本の顔料を使いながら西洋画法を見事にこなしているのには驚かされる。
【江戸時代】1615年(元和1)ごろ〜1867年(慶応3)ごろ 江戸時代は鎖国の時代であって,絵画でもこれまでに築き上げた伝統を基にして,日本独自の多彩な世界を展開した時代である。しかし後期になると,同時に西洋の影響が徐々にみえ始めるが,この意味では後期は明治以後の西洋化の前段階ともいえよう。
前期 1615年ごろ〜1749年ごろ−江戸時代の画壇は狩野派が牛耳る。この地盤を築いたのが狩野探幽である。彼は永徳の孫で,江戸に下り幕府の御用絵師となり,文治政治に合ったスケールの小さい洒瀟な絵画形式をつくりあげた。これ以後の狩野派の画家はすべて彼の画風に従う粉本主義をとったので狩野派は幕府のみならず諸藩の御用絵師を独占するという,全国制覇を遂げながら芸術的には何らの進展もみせなかった。この意味で前期の破門された久隈守景や英一蝶の方に優れた作品があるのは当然である。また漢画系では江戸初期に出た宮本二天や松花堂昭乗の余技的墨画も忘れてはならない。一方,大和絵の宗家である土佐家は前代では堺に下った光吉ぐらいしか名が知られないが,江戸初期に光起が出るに及んで宮廷絵所の職に復帰し,さらにその弟子筋の住吉具慶は江戸に下り,幕府の大和絵の御用絵師になる。しかしこの時代で最も重視すべきは前代末から江戸初期の京都の上層町衆のなかからおこった琳派である。その創始者である俵屋宗達は古い大和絵を当時の金碧の世界に甦らせて数多くの扇面画や「風神雷神図屏風」などの名品を遺し,また元禄期の尾形光琳は「燕子花図屏風」や「紅白梅図屏図」などでシャープなデザイン感覚をみせ琳派を発展させる。このほかの琳派の画家には俵屋宗雪・尾形乾山・渡辺始興・深江芦舟らがいる。江戸初期の京都にはまだ自由な気風が遺っていたが,これを町絵師がなまなましく官能的に描いたのが「彦根屏風」や「湯女図」のような寛永風俗画である。岩佐又兵衛の「古浄瑠璃絵巻」もこの種のもの。しかし寛文(1661〜72)ごろになると男舞や女舞の姿を描くおとなしいものになる。一方,江戸の風俗画である浮世絵はまず大衆的な木版絵入本で始まり,菱川師宣が出て一枚絵をつくる。最初のものは墨摺絵だが,丹絵・紅絵・漆絵・紅摺絵と改良され,後期の錦絵を準備する。肉筆浮世絵では鳥居派・懐月堂派・宮川長春の派が知られる。 後期1750年ごろ〜1867年ごろ−後期になると,京都に新しく写生主義をとなえた円山応挙が出る。彼は伝統的な日本画のなかに西洋の視覚をもちこみ「雪松図屏風」のような日本人になじみ深い絵画をつくりあげた。呉春(松村月渓)は初め与謝蕪村,のちに応挙につき南画風の詩情的な作品を遺す。この応挙と呉春の流れが円山四条派で以後の京都の画壇の主流となる。またこのころ京都を中心に長沢芦雪・伊藤若沖・曽我蕭白のようにエキセントリックといえるほど個性的な作品を描いた画家が出ているのも注意すべきである。江戸ではこの時期に浮世絵に多色摺の錦絵が考案されて全盛期を迎える。錦絵の最初の画家は華麗な美人画をよくした鈴木春信である。その最盛期は天明・寛政ごろで鳥井清長は溌剌とした八頭身美人を登場させ,喜多川歌麿は官能的美人画を完成させ,東洲斎写楽は役者の心理の裏まで読み取る。これ以後幕末までに歌川豊国・国貞・芳年・溪斎英泉・葛飾北斎・歌川広重らの浮世絵師が出るが,なかでも北斎や広重の風景版画が高く評価される。南画は明清の南宗画を宗とするもので全国的に流行する。すでに前期の終わりに祇園南海・彭城百川・柳沢淇園らの初期の南画家が出ているが,本格化するのはこの時期で,天成の画人池大雅や俳諧で著名な与謝蕪村が出て日本の南画を大成させる。つづく大坂の岡田米山人・岡山の浦上玉堂・京都の青木木米・大分の田能村竹田らの活躍も注目される。江戸の南画は谷文晁から始まり,その弟子が渡辺崋山で,さらに椿椿山と伝わる。洋風画は1720年(享保5)の洋書解禁を契機として始まる。その先駆者は奇才平賀源内で,長崎に赴き西洋画を学び,秋田の佐竹曙山や小田野直武に伝え,ここに秋田蘭画を生む。一方,司馬江漢や亜欧堂田善も独自に銅版画や油絵を創始した。西洋文化の窓口である長崎では荒木如元や若杉八十八がかなり本格的な油絵を遺しており,またシーボルトにみいだされた出島絵師川原慶賀も洋風画家として忘れてはならない。さらに後期では酒井抱一による琳派の復興や田中訥言・浮田一恵・冷泉為恭の復古大和絵の運動も銘記すべきである。
【明治以降】1868年(明治1)ごろ〜 明治以後の絵画は油絵と日本画を二つの軸にして展開するが,明治期はこの体制が固まる時代である。油絵はまず工部美術学校などの流れをくむ明治美術会が旧派をなし,それに黒田清輝らがもちこんだ外光派が加わって明治の油絵界の大勢を決した。日本画は東京では岡倉天心の指導のもとに日本美術院ができ,京都では市立美術工芸学校を中心に独自の進展をみせる。そしてこの両方を含んだ政府主催の文展が開かれる。大正期は画壇の成立期である。雑誌「白樺」によって新たに印象派や後期印象派が紹介されるにおよんで画家の自覚が高まり,油絵界に二科会や春陽会などの美術団体が生まれ,いっそう新しいヨーロッパ絵画が摂取される。また関東大震災後にはプロレタリア美術や前衛美術が導入される。昭和前期になると,油絵界はヨーロッパ絵画(美術)ヘのいっそうの接近をはかるが,これも第二次世界大戦で中断を余儀なくされる。戦後の美術は復活した団体展の隆盛,前衛美術の流行,美術の国際化などが特色であって,絵画では一応油絵と日本画という体制は守られているが,現代美術では絵画という形式自体を超越していこうという傾向さえみられるのである。
〔参考文献〕『日本美術全史』1〜6,1968〜69美術出版社
山根有三監修『日本美術史』1977,美術出版社
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