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●絵画(東洋) かいが

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 ヨーロッパからみて,非西洋世界を東洋と呼ぶ広義の見方がある。一方中国からみた東洋世界がある。明初または元末のころ,南海を通って船で交通する地方のうち,東部を東洋,それより西の方を西洋といった。もともとは海洋そのものの称であったと考えられるが,その方面の土地をさすことになった。概してフィリピン群島方面が東洋,それより西の方の群島および沿海地方と,その先のインド洋方面が西洋といわれたらしい。その後,ヨーロッパ人がインド洋をへて中国に来るようになってからは,彼らの本国も西洋と呼ばれるようになった。また,中国からみて東方にある日本を東洋と称した。ただ,西洋は中国からみて諸蕃の地であったから,中国自体は東洋のなかに含まれない。日本では,徳川中期になって,ヨーロッパについての知識の増加につれて,西方の諸国を西洋と呼ぶことになってきたが,その対語として東洋という語が用いられることになった。日本では西洋が蛮夷でも蕃人の国でもない文化国とみられていたためである。したがって中国人が南海から交通する蕃人の国,辺外の国を東洋と西洋に分けたのと異なり,世界の文化国を西洋と東洋に分ける考え方がそこにみられる。けれども,ヨーロッパがさまざまな民族や国家を包含しながら,ギリシア・ロ一マの古代から中世・ルネサンス・宗教改革を通って近代フランス政法革命・産業革命から現代にいたる過程で,一つの世界,一つの歴史の動きによって動いてきた西洋があり,このような歴史的発展という意味で東方世界を眺めれば,一つの東洋がこれまで形成されてきたとは考えられない。アジア地域を宗教的に分ければ,イスラーム文化圏・ヒンドゥー文化圏・儒教文化圏と大別できるが,たとえば,インドから中国・日本への仏教の伝播の流れにみるように,相互に大きな文化的交渉のきずながあったにもかかわらず,中国は根底的に儒教文化圏でありつづけたように,一つの世界の統合に向かう歴史的展開はみられなかった。したがって,西洋文化という意味で東洋文化を一つの世界とみるよりは個々の文化の独自性が勝っている。そこで,東洋絵画の実態はイスラーム絵画ヒンドゥー絵画・中国絵画と個々に分けて語られねばならない。西洋美術とこれらアジア各国絵画相互の影響関係は古くからみられるが,近世以降の西欧世界の大航海時代といわれる自己拡張の時代を迎えて,活発になってくる。一方,近世中国のアジア西方諸国との交渉は,南海ルートを通ってペルシア湾に達した明の鄭和の率いる大船隊の使節団・第1次(1405)〜第7次(1430)があり,これによって,中国の西洋観は大きくひろがってくる。これより,やや前,マルコ=ポーロの東洋旅行(1295年出発)帰国後世に出る『東方見聞録』からのち,ヨーロッパ世界の中国や日本に対する知見が深まり,東方世界への冒険旅行熱が高まって,大航海時代の幕開けとなる。しだいに東洋世界への認識を深めてきた西洋世界では,18世紀から,アジアを概観して東洋的性格という視野からとらえようとする世界史観が思想界にでてくる。フランス啓蒙主義思想家のモンテスキューは「アジアは停滞の支配する社会であり,専制主義の風土化された地方であり,歴史をもたない社会である」と考えたが,ドイツのへーゲルの世界史もこの考え方をついで,アジア的社会の停滞性の理由を探究する。そこにはヨーロッパの歴史を発展的とし,アジアのそれを停滞性とみて比較対照しようとする前提があり,ここから東西文化比較の歴史的視野が開けてきた。美術の領域では,アジア美術を東西比較の視野で,総括的にとらえようとする初めての試みといってよい。フェノロサは“Epochs of Chinese and Japanese Art”(1912)の中で,これまで,建築・絵画・彫刻というように技法別に分類しながら時代の総括をしてきた美術史叙述に,ヨーロッパ美術との美学的比較の方法を導入して,様式の流れをとらえようとした。近年の考古学・人類学・言語学・社会学といった歴史の隣接諸科学の進展によって,個々別々に展開してきた東洋各文化圏相互の関連や,西洋との関わりが新たに明らかになりつつある。

イスラーム絵画】古代イスラーム絵画の残存作品は数が少なく,とくに,イスラーム時代になってからの絵画は神の創造物である人間や動物を描くことは許されないとする宗教的な理由のためで,とくに絵画表現は風俗を描いた写本の挿絵に限定されていたからである。写本挿絵の主流をなしたのはペルシアのミニアチュールであった。570年ごろ生まれた預言者ムハンマドを開祖とするイスラームによる民族統一の結果生まれたイスラーム帝国は7世紀から8世紀にかけて,東はインダス河,西は地中海に沿って大西洋に達し,北は中央アジア・カスピ海西岸,南はペルシア湾・インド洋に達する大帝国となった。これらの土地はかつてギリシア文化の洗礼を受けた地域であったが,アラブ族は征服地の文化施設を破壊せず,占領地区の人たちに古来の宗教思想を維持することを許した。イスラーム文化は,こうして非アラブ系のイスラーム教徒によって,ギリシア科学,ペルシア・インドなどの東西諸文化を摂取して普遍的性格を強める。ヨーロッパ語の辞典にはアラビア語源の科学関係語彙がたくさん含まれているように,ヨーロッパ文化と直接的に深い関係をもったのである。このような世界的性格をもつ一面,宗教的理由から,イスラームの造形芸術では,量的にも,質的にも高度に発達したものにアラベスク文様がある。イスラーム建築の外面や内部を一面に装飾している幾何学的装飾文様や植物文様である。これは,周囲の空間に大きな力を及ぼす人間や動物の表現を禁じられているからである。したがって,イスラーム文化圏では写本のミニアチュール絵画や装飾彫刻を除いて,これといった発達はみられないが,織物・敷物・陶器・ガラス器・金属器などの工芸部門の発達をみることになった。

ミニアチュール】国王たちの製作する写本に挿絵として描かれたペルシア=ミニアチュールは現存作品によると13世紀に始まり,16世紀を頂点として,17世紀からは古い様式を繰り返す頽廃期に入る。主題は,貴族の宮廷生活など世俗的なものに限られたのは,宗教的影響が及ばない環境が選ばれたからで,フィルドウースィ(932〜1020)の作品『シャー=ナーメ』(王の書)のような文学作品の挿絵として,物語の世界・ロマンスの世界が描かれる。15,6世紀の作品では人物の背景となる風景や建築を細密華麗に描写してロマンチックな雰囲気を高めるようになる。色彩は鮮やかで,細部まで明瞭に描かれ,草花の点在する楽園が装飾的に描かれている。年代的に各流派をあげると,セルジューク朝下の「バクダード派」(12世紀末〜13世紀初),中国元朝絵画の影響の強い「モンゴール派」(13世紀中ごろ),ティムール朝(1369〜1500)・サファヴィー朝(1502〜1736)下の「シラーズ派」「ヘラート派」「タブリーズ派」「イスファハーン派」などがあり,インド=ミニアチュールでは,17世紀に最盛期にあった「ムガル=ミニアチュール」をあげることができる。

【インド絵画】前4世紀のアレキサンドロス大王の東征以後,ヘレニズム美術のインドヘの影響は大きく,仏陀を具象的に形どることを数百年もためらってきた仏教徒は,西暦1世紀末ごろからガンダーラで仏陀の浮彫を始め,独立の仏陀像が出現するのは1世紀から2世紀初にかけてで,間もなくマトゥラーでも仏陀の制作が始められたとされる。ガンダーラ仏の容姿にはヘレニズム美術の影響が色濃いが,このような文化的影響の背景として,2世紀ごろから急激に発展する西方世界との海上貿易が考えられる。そのころのインドではギルドの組織が整備され,造船技術や季節風を利用する航侮も進み,1世紀の『エリュトラー海案内記』のような,航路や各港で扱われる商品を詳述した本が残されているくらいである。インドと西方世界との交易は7世紀ごろまでつづくが,こうした経済的背景のもとに,前1世紀から7世紀のあいだ大小さまざまな800以上ものアジャンタエローラなどの岩窟寺院が,交易ルートに沿った南インド各地に造営された。これら岩窟寺院は港と都市を結ぶ陸上交易路を行き交う隊商たちの休息の場所としても使われたのである。アジャンタ(前1世紀ごろ〜5・6・7世紀)や,セイロンのシーギリアなどの岩窟などには敦煌の壁画につぐ大規模な壁画が残されているが,全体としては,彫刻に比べて破損しやすい壁画の遺品の数は少ない。これらの壁画は主としてグプタ時代(350〜650)に属する。一方,ヒンドゥー教寺院はほとんど壁画を用いず,ヒンドゥー神話や叙事詩『ラーマーヤナ』の物語は浮彫として建築物の壁面を飾った。8世紀以降のインド中世絵画は,古代が仏教壁画であったのに対して,ヒンドゥー教的色彩が強まる。ヒンドゥー教的伝統が華を咲かせたのは,16世紀から19世紀前半にかけてのラージュプートのミニアチュール(細密画)においてであった。主として西北インドのパンジャーブやラージャスターンでラージュプート王侯の庇護のもとに,ヴィシュヌ信仰に関する主題として,牧牛者の姿で現れたヴィシュヌが描かれる。インド絵画の伝統はさまざまな点でラーシュプート絵画へ受け継がれ,さらに,現代インド絵画の本流もここに根ざしている。

【東南アジア】インドの東隣のビルマからタイ・カンボジア,現在の南ヴェトナム(チャンパー),マレー半島とその東南に散在するインドネシア諸島の地域を普通意味している。東南アジア美術は,世紀初めごろからこの地域に植民と貿易によって進出したグプタ以降のインド宗教美術(ヒンドゥー教・仏教)の地方的発展形態を示したが,受け入れ地域のインドネシア族(マライ族),ビルマ,タイのモン族,カンボジアのクメール,チャンパのチャム族など民族の相違によって,インド美術の受け入れと展開に,それぞれ独自の民族的展開をみせた。だか,様式的には,相互に影響感化がみられ,全体としてインド的な背景をもつ1ブロックを形成した。けれども,この地域へのイスラームの普及の進展につれて13,4世紀以降から,この地のヒンドウー・仏教美術の展開に衰えがみえはじめた。この地域の人々はインドと同様宗教的情熱をそそいで,カンボジアのアンコール=ワットやジャワのボロブドゥール,ビルマのパガン遺跡にみるような巨大な建築遺構を残していて,釈迦の本生活(ジャータカ)や年代記のような主題の浮彫や彫刻をそれらの遺跡に多数残したが,絵画は壁画としては,ビルマのパガン遺跡のものに11世紀にさかのぼるものがあるが,ほとんど残されていない。

【中国・朝鮮・日本の絵画】148年,安息国(パルチア)の僧安世高が洛陽に来た,小乗仏教関係の仏典を伝えたころからインド・西域の僧で中国へ布教に渡来する者が増えはじめるが,中国からも法顕が5世紀に経典を学びにインドに渡り,中国に仏教が根を下ろしはじめる。漢代末期,中国は北方蛮族の侵入と内戦により政治的に混乱期にあったが,古代中国で支配的だった儒教思想に対して,この時期には老荘思想と仏教思想が新時代の思想として参入するようになり,時代は思想変革の時期を迎えていた。漢代の儒教的世界の表現として,儒教思想の通俗的教化のため,家族倫理の実践者である孝子貞女の行動を描いた勧戒画が描かれていた。こうした実用目的から独立した表現としての山水画を描く文人画家が出てくるようになったのは,漢末の魏晋時代にかけてであり,世俗を超越して芸に遊ぶという老荘的思想がそこにみられ,仏教絵画も,このころから新しいジャンルとして出現する。神仙・仏弟子を描く道釈画が現れてくる。

【朝鮮・日本】古代朝鮮半島では,漢の光武帝が漢江以北の地に楽浪など4郡を設置して,楽浪文化の時代に入るが,それ以降儒教的中国文化の影響が深まって,百済や新羅には北魏式の仏教芸術の影響があり,日本の初期仏教にも,朝鮮半島を経由した中国文化の影響は大きくなってくる。中国からの直接・間接の仏教思想や儒教・老荘思想などの外来思想と文化は,古代・中世・近世を通じて日本へ導入され,自然の美を高く評価する内的で華麗な美意識を育ててきた日本絵画にとって,これら東洋諸地域と西洋との文化史的交渉は抜き難い痕跡を残している。このように東洋の絵画を西アジアと東アジアに大別してみると,西のイスラーム・ヒンドゥー世界と,東の中国・朝鮮・日本などの儒教的世界の絵画表現は大きく表情が隔たってみえるが,西と東とのあいだには古くから相互に影響を与えあってきた東西交渉の歴史があり,これらの歴史的要因はそれぞれの絵画表現の独自性を高める要因となっていき,東洋全体の統一的世界の表現に向かう方向はとらなかったことがわかる。しかし,近世初頭にはじまるヨーロッパの大航海時代といわれる,西洋から東洋世界に波及してくるヨーロッパの自己拡張の動きは,絵画の世界でも,ほぼ18世紀ごろから,西洋との交易の進展,植民地支配の進展につれて,西洋絵画の空間構成の原理と技法の両面にわたって東洋絵画に根の深い影響を与えはじめ,その痕跡は西アジアから東アジアにいたるひろい地域の文化圏でみられる。日本の例でいえば,18世紀末にはじまる浮世絵風景版画には遠近法理論を導入した画面構成の風景画が流行したが,それは自分たちの住む世界を肉眼でみるように描いた初めての体験であった。これは視覚的慣習の大きな変革を迫るものであり,以後,伝統的絵画思考とのあいだに長期にわたる文化的葛藤がはじまった。これは世界をどう眺めるかという世界観の問題であり,それぞれの世界観には長い歴史的背景がある以上急変すべきものでもないが,地球規模で同一化を進めている現代世界の近代化・国際化の方向は,地域による時期の早い遅いはあれこのころに出発している。

〔参考文献〕津田左右吉『シナ思想と日本』1947,岩波新書

馮承鈞『中国南洋交通史』中華民国26,中国文化史叢書

奈良康明『仏教史.1』世界宗教史叢書,山川出版

上野照夫『古代・中世のインド絵画』世界美術全集11,平凡社

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