●絵画(西洋) かいが
AD
線・色彩で構成される二次元の造型。イギリスの美術批評家ハーバート=リードは,その著『イコンとイデア』で,芸術の発生をヴァイタリティ(生命力)の表現に求め,〈芸術は決してリアリティ(現実)を全体として把握しようとする試みではなかった。……芸術が外観の全部を再現しようとする試みであったことさえない〉と述べ,〈芸術の営み〉を〈無定形な領域からの,有意味あるいは象徴となるフォルム(形体)の結晶化〉と規定した。この規定は,対象再現的な具象画から非再現的な抽象画,さらには装飾・文様までに及ぶ全平面造形を包括する本質的な規定でありうる。【発生期】19〜20世紀スペイン・フランス国境地帯のラスコーおよびアルタミラ洞窟で発見された壁画は,現存する人類最古(旧石器時代)の絵画的表現で,絵画という表現形式の発生の状況をよく語っているとみなされるが,すでにそれはリードの規定の妥当性を十分に証している。絵は狩猟の場面を表す人物・動物群からなりたっている。狩の成功を祈願する呪術(アニミズム)のために描かれたと思われるが,リードは,まず祭式があって,その付属物として絵を描く行為があったのではなく,さまざまの事柄に関連をつけようとする〈生の意志〉から,視覚像で表現すること,絵を描く行為が生まれた,と語る。アニミズムもまた,どんなに〈非合理・非論理的〉でも,さまざまの事柄に関連をつけ,秩序を立て,なんらかの法則性を導きだそうとする欲求から生まれている。こうして一般に宗教的なものと図像表現とは手をたずさえてすすんでゆく。宗教は神の力によって宇宙・森羅万象をつかさどる秩序と法則を説明しようとする試みだからであり,一方,図像に表現することは事物の関連を最も明快に一挙的に把握させる試みだからである。実際,のちの西欧絵画の源流となるエジプト・ギリシアなどの,建造物壁画や土器などに描かれた絵画的表現も多かれ少なかれ神話的題材にかかわりがあるし,さらに,ルネサンス以降の西欧絵画の起点となる平面造型は,中世キリスト教をぬきにして考えることはできないし,その表現は直接礼拝の必要性に規定されている。
【中世・キリスト教図像】それぞれの宗教における法則化の試みはその宗教の神学となるが,それに対応する図像は当然,その神学なりに把握・整理された世界像の表現とならねばならない。さらに礼拝という契機から考えるなら,神の像の表現は,まず信者にとって,キリスト教的にいえばコミュニケーション(信仰告白・交感)が最も良く可能となるような構成となっていなければならない。すぐ推測がつくように,神は信者と正対する正面像で表現されねばならない,ということである。日本の仏像・仏画をみてもすぐわかるように,このことはあらゆる宗教画に共通する普遍的約束となっている。中世キリスト教絵画もこの例にもれない。このことは,空間構成の面からいえば,三次元的奥ゆきをもたない平面的造型となることを意味する。次に,神学的規定からいって,その宗教における最高神は,すべての存在を超えるという意味で,一般に他とくらべてより大きく,かつ中心像として描くことが求められる。この布置はときに「価値の遠近法」と呼ばれるが,それによって,最も大きな最高神像を中心に,他の諸像はその価値に応じて段階的に周囲に配置される空間構成となる。曼荼羅絵,あるいは本尊・脇侍三尊像の配置などをみれば,およその類推がつけられる。最後に,キリスト教特有の原則として,神そのほかの聖なる図像は,一種の超越的空間に描くきまりがあった。これはキリスト教の発生史に由来していることなのだが,当初,キリスト教は,既存のユダヤ教など偶像崇拝を否定する宗教として出発した。つまり,キリスト教の最高神エホバは,それらの偶像神すべてを超えるもの,人間の感覚世界を超越する〈不可視の存在〉と規定される。したがって原始キリスト教では,原則として偶像崇拝・図像表現が禁止された。だが布教上の必要からいえば,“可視”の神像のあることが望ましい。偶像禁止と偶像崇拝というこの二つの原則は,キリスト教内部で根深い対立を構成し,宗教改革も一面ではその抗争であり,対立は今日の新教・旧教(の対立)にまで及んでいる。だが中世期,第7回ニケア宗教公会議(787)で偶像崇敬が公けに宣言され,とりあえず対立に終止符がうたれて,以後中世キリスト教美術は本格的な展開をみせることとなる。とはいっても,神の超越性に関する規定は変わりなく働いて,造型上,神の姿は超地上的な空間・象徴的な天上界に描くべきものとされた。その永遠性の時空を象徴するのが,背景一面に塗りこまれる「金地(Gold-Ground)」である。こうした諸原則にのっとって造型される以上,聖像画(イコン)の表現は当然,人間の視覚に映る現世空問の“再現”になりうるはずがない。加えて,聖画像の描かれる中世教会堂は,地上における〈神の家〉として構成された(E.ブロッホ)。そのため,造型上では建築がまず空間の全体を規定し,彫刻・絵画はその構成原理に服することを求められた。彫刻は独立した丸彫りよりは,柱像あるいは壁面レリーフとなり,絵画もまた壁面構成に規定され,油絵具の未発達もあって,モザイク・テンペラ・フレスコなど漆喰壁にじか描きされる壁画として,建物に不可分に組み込まれた。逆にいえば,中世絵画はこの壁面を主舞台として発展する。その点,風土的条件により採光をあまり考慮する必要がなく,小窓を切り抜くだげで,他は大きな壁面部を保証されたイタリアの教会堂に,のちのルネサンスにまでいたる大壁画が発展できたのは,こうした建築構造上の理由にも,その一端があるといえよう。対するに,ドイツ・フランスなど西欧北部では,11〜12世紀ごろまでの,ローマ風を模した壁-構造式のロマネスク教会堂にこそ壁画がみられるにしても,その後13〜15世紀に展開される柱-構造式のゴシック伽藍では,ステンド=グラス(ガラス絵)にとって代わられる。
【ゴシック美術】ゴシック伽藍とは,「ゴート風(Gothic)」というその名のとおり,北方ゲルマン系民族が発展させた建築様式で,高塔を中心とする大教会堂である。これは,神学的には,より高く天上をめざすという要請から生まれているが,他方,建築的には,より壮麗・宏壮な〈神の家〉を意図した場合に生ずる構造上の難点を打開する方策として考えだされてもいる。ロマネスク教会堂は,四囲に厚い壁をたてる壁-構造の上に,木製の天井と屋根をのせる方式になっていた。だが内部空間が宏壮になると,ひろがった壁間を木の梁で支えるのは困難となり,かつ木製の天井・屋根は火災対策の難点もあった。さらに,厚い壁を高く積みあげることは,倒壊予防の点で困難があった。ゴシック伽藍は,たばねた石柱を重層的に積み重ね,その上に4分割・6分割などをした曲面天井をかぶせる尖頭ドーム方式で,天井をはるか高くおしあげると同時に,石材天井そのものの荷重が各柱に無理なく配分され,かつその重し自体が柱の安定を保証するという巧みな柱-構造方式で,この問題を解決した。イタリア=ビザンツの教会堂が,半球型円蓋をのせることで巨大化の問題を解決したのと対照的である。柱-構造は壁面を減少させる一方,採光によい大きな開口部をつくりだす。当然壁画は消える一方,代わって登場するのが大きな窓をおおうステンドグラス(ガラス絵)である。当時急速に発展した色ガラス製造技術とあいまって,ゴシック末期のガラス絵は,「ガラスで描かれた絵」と呼ぶにふさわしい精妙・優雅な水準に達して,同時代のイタリアの壁画群にみあう独自のジャンルとなった。さらに柱間の小さな小壁は精妙な石彫レリーフで埋めつくされたが,これは「石で描かれた絵」として壁画に代わる役割を果たしている。
【ルネサンス美術】こうした状況はルネサンスとともに一変する。ただし中世とルネサンスの断絶を強調しすぎるのは妥当とはいえない。中世を「暗黒時代」として対立的に強調するのは,むしろルネサンス以後の近代思想によって作られた神話であって,実際のルネサンスは数世紀にわたる徐々たる発展をとおして,しかも中世の諸原理の延長展開として形づくられてきている。まず,自然科学は自然の法則・秩序を探る学でルネサンス期に初めて誕生したとされているが,実際にはこれは中世神学の延長上にある。中世神学では,〈神は宇宙の創造主であり,したがって宇宙万物は神の摂理による一定の法則性に従う秩序のなかにある〉とされたが,その原理をふまえて宇宙天体の法則性を考究したところに生まれたのが天文学あるいは物理学・力学であり,コペルニクス・ガリレイからニュートンにいたるまで,すべてその伝統思想のなかで思考している。ルネサンスの人間主義も,人間を神の似姿としてつくられた「神の代理人」とみなす神学的前提から出発している。そういう人間の“まなざし”がとらえる法則性だから,自然科学も真理となる。絵画もまた同じ前提に立つ。それは,「神の代理人」としての人間の“まなざし”がとらえた世界の光景の表現となる。このためルネサンスでは,科学と美術はあい対応しあうものとなるのであり,たとえばレオナルド=ダ=ヴィンチが芸術家であると同時に科学者・技術者であったのも,そうした理由によっている。絵画にも,科学にみあう法則性が要求される。それを凝縮したものが,「透視的遠近法」あるいは「線遠近法」と呼ばれる技法である。
【ジオット】転換は,まずイタリアの画家ジオット(1266ごろ〜1337)によってもたらされた。彼自身は敬けんなキリスト教信者であり,絵画の科学的転換のために新技法を導入したわけではない。題材も,『キリストとマリアの生涯』(パドヴァ)壁画連作など,生涯宗教性をはなれることはなかった。だから宗教の新しい心を表すために新しい技法が試みられた,というのが正しいだろう。問題は,画面構成の仕方にあった。彼の人物は,キリストも含めてすべて横むきに描かれている。人物群は画中で左右二手に分かれ,たがいにむかいあい,目をみつめあう構図をとる。鋭く交叉するこの視線が,画面に劇的な緊張をもたらすと同時に,横むきに位置する人物は,当然奥ゆきをもたねばならないこととなる。一人の人物が奥ゆきをもてば,当然他の人物との,とくに前後の位置関係の明示が要求される。前後の位置関係とは地面を基準として測られるものであり,このため,次には地面に対する高さの明示が要求されることとなる。つまり人物たちは,実際の身長の・大小に応じて描き分けられねばならない。必然的に“価値の遠近法”は否定され,二次元の絵画平面は奥ゆきにむかう三次元の空間をはらむものとなる。無時間の永遠を表す「金地」の世界は終わり,代わって時間とともに変化する現世の世界,人間の生きる現実の空間が登場する。写実=リアリズムの始まりである。以後,西欧絵画は,ジオットの開いたこの道筋,〈二次元の平面に,いかにして三次元の空間を表現するか〉という写実の課題を,20世紀初頭の抽象絵画の登場まで,ひたすら追いつづけることになる。
【マザッチョ】このジオットのあとを受け継ぐのが,マザッチョ(1401〜28)である。フィレンツェに生まれ,わずか27歳で夭折する天才画家は,しかしルネサンス様式の原型を確立して以後に不滅の業績をのこすのであるが,その彼に方法論的な基礎をあたえたのは,建築家ブルネレスキ(1377〜1446)が体系化した透視図法である。人間の視覚を近似的に数学化し,無限遠点に収斂する線上に形態を大小・前後の関係に応じて比例的に配分してゆく方法であるが,これによって初めて,前景から遠景までを連続する統一的空間にまとめあげることが論理的に可能となった。ジオットでは,まだ背後の建物や自然は象徴的に描かれて,必ずしも前景の人物たちとなだらかに連続化されているとはいえないのに対して,マザッチョの代表作『貢の銭』ほかでは,遠景にまで及ぶ三次元の立体空間が無理なく融合させられているのをみることができる。ウッチェッロ(1397〜1475)・ピエロ=デッラ=フランチェスカ(1410/20〜92)などは,マザッチョのその技法をさらに精密化して,一種の幾何学に似たものにまで仕上げてゆく。
【レオナルド】ところで,実際に人間の目にみえる世界は,整然とした比例関係でなりたっているわけではないし,また,人間の目にものがみえるのは光があるからである。その光を媒介するのは空気である。だが空気は目にはみえない。しかもその空気がなければものはみえない。この仕組みはのちの光学研究で明らかにされてゆくのだが,直感的にそれを感じとって,光をはらむ空気の厚みを描くことに工夫をこらしたのがレオナルド=ダ=ヴィンチ(1425〜1519)だった。傑作『聖アンナ』『モナ=リザ』などで,彼は,単純な線遠近法だけではなだらかに連続させられているとはいえなかった前景・中景・遠景を,おだやかにぼかした明暗の陰影づけに包み込むことで,よりリアルな視覚像に近づけることに成功した。だが,こうした視覚像の造型より以上にルネサンスで問題となるのは,目にはみえない精神の表出であった。人間が現実に心身の統一体として存在している以上,リアリズムを追究してゆけばこれは当然でてこなげればならない帰結だった。すでにジオツトの場合でも,横むきにあい対する像とは,単に空間的な関係にとどまるものではなく,人物相互の心の関係,その精神のドラマが必然的に生みだした構図だった。レオナルドが技法に腐心したのもそのためだった。彼にとって絵画的リアリズムとは,不可視の内面界を十全に可視化することでなければならなかった。こうして,人間の表情・姿態はいうまでもなく,風景から衣裳の肌あいさえも,明暗の微妙なトーンを通して表しだされ,ある精神的なものの表現となる。そこには真の極みが現れる一つの美の姿がある。
【ミケランジェロとマニエリスム(技巧主義)】レオナルドの求めた,心身の過不足なく照応するリアリズムにはある静かな均衡があったのに対し,やや世代の下るミケランジェロ=ブォナロッティ(1475〜1564)にはある変容が現れた。彼にとって,精神を描くとは,もろもろの人間情熱を表出することにほかならなかった。憤怒・歓喜・苦悶・慟哭といった激情はまた人間の持ち前の性質であり,そうした諸情念の極限の姿を表すために,彼は,人体のプロポーションをあえて狂わせ,ねじ曲げ,誇張することさえ辞さなかった。その集大成をシスティナ礼拝堂の『最後の審判』図にみることができる。ルネサンスが開発しえた技法の極限を駆使する彼の表現はときに醜悪でさえあり,そのためそれ以前の清澄な理想主義的表現を貶しめる「マニエリスム(技巧主義)」との,そしりも受けた。しかし彼の活躍する16世紀前半,イタリアではルネサンスの昂揚はすでに消え,1517年宗教改革の始まりとともに,西欧全域に混乱と閉塞の時代が訪れる。マニエリスムとはそのような時代を映しだすそれなりのリアリズムだったのであり,ポントルモ(1494〜1556/57)・アルチンボルド(1530?〜93)といった画家は,ある奇矯な表現を通して人間の屈折する心の姿を鋭くあばきだしたのであった。
【ドイツ】こうしてルネサンスはイタリアでは終わりを告げる。しかしルネサンスとはイタリアだけのものだったわけではない。むしろそれは,ローマ教会のもとにそれなりの統一を保ってきた西欧中世社会が,ようやく転換にむかおうとする全西欧規模の巨大な動きだった。美術もまたそれまでの宗教的礼拝の具から抜けでて,各国の特性に応じた個性的な発展にむかおうとする。16世紀前半,ハプスブルク家の勢力圏にある南ドイツには,「ドナウ派」と呼ばれるグループが誕生する。アルトドルファー(1480〜1538)・ヴォルフ=フーバー(1485ごろ〜1553)などがそれで,ドナウ川流域の豊かな森林を主題に,のちの風景画の先駆となる画風を生みだした。さらに宗教改革とは,ドイツの中世社会を破る一種の政治的ルネサンスであったが,その改革のなかで,プロテスタントにくみする多くの画家が新たな画風を生みだしている。グリューネヴァルト(1455〜1528)・デューラー(1471〜1528)・ホルバイン(ホルバイン父1465〜1524・ホルバイン子1497/98〜1543)・クラナッハ(1472〜1553)などがそれで,ドイツ=ルネサンスと呼ぶにふさわしい彼らの活躍によって,ゴシック美術との区切りがはっきりと画されたのであった。
【ニーダーラント】さらに注目されるべきはニーダーラント(現在のオランダとベルギー)である。ここは貿易を中心に早くから市民階級の力が強く,それを支えとして北方ルネサンス美術の独特な展開をみせていた。15世紀から17世紀にかけて,ファン=エイク(ファン=エイク兄1370〜1426・ファン=エイク弟1390〜1441)・ボッス(1450ごろ〜1516)・ブリューゲル(1528ごろ〜69)を初めとして,ルーベンス(1577〜1640)・レンブラント(1606〜69)・ロイスダール(1600ごろ〜70)など,近代美術に欠かせない巨匠がここからは生みだされている。何よりもニーダーラント美術が重要なのは,宗教的主題をまったく離れて,市民の日常に材をとった肖像・静物・風景などのジャンルがここに初めて生みだされている点であって,西欧の近代美術はここに初めて確かな基礎を与えられた。
【バロック・ロココ】こうした市民的美術と対照的な展開をみせるのは,ハプスブルク・ブルボン両絶対王制の庇護下に形づくられたバロックとロココ絵画の宮廷美術である。バロック絵画は,イタリア=マニエリスムに連なるカラヴァッジョ(1565ごろ〜1609)を源流とし,それをうけてスペインに渡ったエル=グレコ(1541ごろ〜1613),スペイン領フランドル(ベルギー)から長くイタリアに学んだルーベンス(1577〜1640)などが,その代表となる。その特性は,ルネサンスの静的な空間構成に対する,飛翔するような運動感の表現にある。けれども,バロック美術の根本はむしろ建築におかれた,というほうが正しい。ゴシック伽藍が神の威光の顕現のために求められたとするなら,ここでは絶対君主の権勢誇示のために壮麗な建造物が求められた。しかもどんな力にも拘束されぬ権力の無限性を顕示するために,建物には限界をつき破って伸び拡がる力動感の表現が求められる。それは重力にさえさからって飛翔する空間表現でなければならない。水平と垂直を軸とし,奥ゆきにまっすぐ延びる線を組み合わせた遠近法によるルネサンスの静的な三次元の空間構成に対して,ここでは遠近法はねじ曲げられ,おしひしがれ,あるいは引き伸ばされて,いわば一種の曲面幾何学的な表現となる。それによって遠近法は本来の静的な安定性をこわされ,一種四次元的な揺れ動く運動性の表現に転化される。建物はいたるところ曲線の連続となり,半球型円蓋には飛翔する神・天使などが下からみあげられる姿のままに描かれ,壁面もまたそれに準じる。バロック絵画の課題は,建築におけるそのような運動感をどのようにして平面に置きかえるかにむけられた。カラヴァッジョでは鋭い明暗の対比により画面の劇的な動きが強調され,グレコでは人物たちは伸びあがる植物のように長く引き伸ばされて身をよじり,ルーベンスではついに中空に飛翔する。しかもそのどれでも視線を安定化させる水平・垂直の線は極力排除され,代わって傾斜・旋回などの暗示によって極力運動が強調される。このようにみるならば,バロック絵画とは,どのようにして二次元に三次元を盛りこむか,という遠近法の問題と並んで,刻々に変動する現実の瞬間を切りとって定着するものである絵画に,どのようにして運動を盛り込むかという,絵画のはらむ根本的な二律背反を明らかにしている,ともいえよう。このことは,のちに印象派が否応なしに直面しなげればならぬ問題となる。ロココは,バロックのみせたその運動感をさらにつきつめたところに生まれる。すべては浮遊し,そのために非現実化してある種の夢幻の表現となる。それを最もよく代表するのが,ルイ15世の宮廷画家ワトー(1684〜1721)である。なかでも『シテール島への舟出』にはその特色が最もよく現れ,宮廷男女の愛の交歓を描きながら,すべては淡いもやに包まれてはかなく漂う夢の情景に似たものとなる。これは前代のニーダーラント流リアリズムとまったく対照的だが,このロココの優雅繊細な表現によってフランス絵画は独自の国民的様式を生みだし,以後2世紀にわたる全盛の基礎を確立した。
【風景画・自然との関係】時代と場所によるこうした様式の転変を貫いて,近代絵画の展開に最も重要なのは,画中での人物と自然の関係,つまり風景の問題である。もともと西欧絵画は人間像中心に発展してきた。中世聖像画には自然はまず登場しないし,仮りに描かれても象徴的表現・一種の記号としてそえられているにすぎない。先のジオットの場合でも,その例にもれない。これはしばしば,自然への無知,技術的未熟のため,とされてきた。だがゴシック伽藍には実に高度な建築・彫刻の技術がみられるところからすれば,絵画だけ未熟ということはありえない。絵画表現に自然が登場しないのは,もっぱら信仰上の理由による。神学教義によって,自然が禁忌の対象,悪・不毛と表象されたため,と判断される。絵画のなかでの人物と自然の関係は,そのまま時代のなかでの人間と自然の関係に照応する。圧倒的に人間像が優位にあったルネサンス以降の西欧絵画の流れのなかで,この関係の変化は,画中に占める自然の位置の上昇としてとらえることができる。それはそのまま風景画の発展となる。その意味は,題材が人間から自然に変わった,ということにとどまらない。科学は自然の探究であり,遠近法とは絵画における科学であると前にのべた。ところで人間が空間を法則的に秩序だてる場合,それの経験的出発点となるのは住居であり,住居の延長・拡大としての都市である。遠近法も都市計画図を理論的出発点としている。遠近法の確立者マザッチョが,建築家であると同時にすぐれた都市計画家であったブルネレスキの仕事に依拠したのはいわれないことではなかった。遠近法を自然のなかへ延長し,雑多な自然空間を法則的に秩序だてるとは,自然を“準都市化”することにほかならない。そして自然を都市・住居に準して秩序だてながらこれに接続させる一番明快な方法は,自然を“庭”とすることである。庭は準自然・準都市として自然と都市の媒介項であり,逆にいえば庭とは都市・住居の似姿である。遠近法は,自然と人間生活に連接させながら画面にとりこんでゆく方法的規範となる。風景画とは,そういう方法論的前提で成立する,“庭園化”された自然,ミニチュアとしての自然の姿にほかならない。ニーダーラント派の風景とは同時代の都市生活風俗画の双面の似姿であり,17世紀フランスの大家プッサン(1594〜1665)の風景は,ルネサンス古典主義で理想化された自然である。またワトーに登場する自然は,宮廷生活の野外への延長,野外に設定された宮廷庭園の情景である。それらはすべて,人間化された自然の姿にほかならない。そして絵画のなかに自然がより大きく場を占めるようになる経緯は,人間がより深く自然のなかにふみこみ事物の世界を制覇してゆく事態と平行している。その中心に自然科学の発展がある。そして,自然科学が自然に関する純粋に客観的な学として自立するとき,それにみあって絵画から人間像が消去され,自然の客観的表現が主題となるところに,純粋な風景・静物画が成立する。リード的にいうならば,これは〈人間の生命力に発する意志が自然にむけて貫徹されたことの象徴的な証〉,ということになろう。
【印象派】西欧風景画は,18世紀から19世紀にかけて,イギリスのゲインズボロー(1727〜88)・ターナー(1775〜1851),フランス=バルビゾン派のミレー(1814〜75)などの手でゆっくりと発展させられてきたが,19世紀後半,マネ(1832〜83)・モネ(1840〜1926)らの印象派で一つの極点に達する。だがそこには一つの逆説がはらまれていた。印象派は戸外に出た。対象の真実に迫るリアリズムの立場からすれば,風景画では当然のことである。実験科学の絵画的実践,という時代精神の動向もあったろう。だがこのことは,刻々に変化する現実と瞬間の定着,という絵画のはらむ根本的な二律背反を一挙に顕在化させた。太陽光線は刻々に変動し,それにつれて色彩も変わる。そのどれが対象の真実であるか。結局は連続的に変化するその全体を描くのが真のリアリズム,ということになるはずである。モネが積藁・水蓮などを題材として,連続写真に似た連作を試みたことはあまりにも有名である。だが人間の手と眼がその変化のスピードに追いつくべくもなかったのは当然である(このことはのちに映画で達成される)。さらに彼らが風景の現場に立ったとき,自然はルネサンス以来の古典的技法が教えるのとはまったく違う姿で現れた。肉眼がとらえる自然の事物は,遠近法の整然とした比例関係には合致しなかった。遠近法は単視点を起点として割り出された数学的関係という虚構に支えられているのに対して,人間が三次元の立体空間をとらえるのは二つの眼の調整によっているからである。こうしてルネサンスに発するリアリズムは,その最果てに,対象の真に迫ろうとする印象派の試みによって根本的につきくずされることとなる。二次元の平面に三次元の立体を盛りこむ,というリアリズム絵画の根本の虚構がつき破られたというべきだろうか。
【ゴッホとセザンヌ】これによって絵画は,二次元の平面でなにが可能か,という単純自明だが本来的課題に投げ返されることとなる。その一つの方向を示唆したのがゴッホ(1853〜90)である。彼は,色彩を対象再現から剥奪して,不可視の心的世界を表現する手段に変えた。これによって絵画は,再現リアリズムの呪縛を解かれて,精神的なもの・自由な想像力表現の場となる道が開かれた。もう一つはセザンヌ(1839〜1906)からピカソ(1881〜1973)にいたる道である。セザンヌは対象のリアルな再現に迫るなかで,事物を単純な幾何学的形態に還元・抽象するところまでいたりつく。ピカソはそれをうけて,対象を基本的な幾何学的形態に解体,それを再構成することで,事物としての世界の純粋な表現を試みた。いわゆる立体主義である。こうした試みをうけて,20世紀初頭,カンディンスキー(1866〜1944)・モンドリアン(1872〜1944)らが,対象再現のリアリズムと完全に絶縁して抽象表現を提示したとき,絵画はまったく新たな課題をになって,現代という未踏の工業文化にふさわしい造型を模索し始めることとなる。
![]()