●怨霊 おんりょう
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怨を抱いて祟りをする死霊また生霊。その中には無念のうちに横死した人々の怨念が,現世に現れて怨恨をはらし,あるいはその無実を訴えるために,さまざまな不思議を働き,祟りをし歩いている。また亡霊の祟り・冥土の報復におびえたのは,陰謀が成功して生き残った当事者である。怨魂亡霊と化す者は男女を問わない。また,祟りの復讐を受ける側にも男女の別はない。このものは庶民にはあまり縁のあることではない。【怨霊の活動の時期区分】須田春子は,その著『平安時代後宮及び女司の研究』(1982,千代田書房)において,以下の3期に集中しているという。第1活動期−光仁天皇宝亀年代から桓武天皇延暦以降約1世紀。この期間は,光仁直系の皇統確立期に当たり,怨霊・怨恨はもっぱら皇位継承を廻る東宮・立坊争いにまつわる謀略事件に起因する。第2活動期−醍醐・村上の延喜・天暦以降約1世紀。この時期は藤原氏では対抗有力氏族を打倒して一門の権勢集中を策謀する時代である。また,一門の権勢は時平派が凋落して忠平派へ移る一方,同族間に子女の立后立坊をめぐる争いが激化する時代である。第3活動期−一条天皇以降,特に藤氏摂関時代を中心とする時期。道長の強引な婚姻政策をめぐって物の怪が猛威を振るう時代である。第1活動期にあった事件は[1]井上・他所事件,[2]早良親王廃太子事件,[3]善珠法師の験,[4]夫人藤原吉子と伊予親王事件,第2活動期にあった事件[1]菅原道真の亡霊,[2]民部卿藤原元方の霊,[3]九条師輔の猛霊,[4]九条兼家の霊,[5]保子内親王の霊,[6]またそれ以後の政治的怨霊は(イ)桓算供奉の物の怪,(ロ)朝成の悪霊一頭掌,(ハ)誠信の悪心−中納言争い,第3期の事件をあげると次の通り。[1]道長の独裁は多くの人々に恨まれるもととなり,[2]小一条院事件と堀川左大臣顕光の悪霊,[3]村上天皇の第七皇子中務宮具平親王の霊,[4]道兼の遺魂,[5]土御門殿の物怪調伏,[6]藤原倫寧女の苦悩−兼家への不満など,を該当するものと認める。
【怨霊と物の怪】『源氏物語』をよむと,六条の御息所といわれ,また,前坊(さきの皇太子)の北の方といわれた人が,そんな身分でありながら,霊魂の遊離しやすい傾向の人で,生きているうちに,生霊となって,光源氏の第一の北の方・葵の上をとりころし,死んでは死霊となって第二の北の方・紫の上にとりついて死に至らしめ,さらに第三の北の方・女三の宮のさしがねによって,年若くして髪を削ぎ落として尼北の方,第三の北の方を執念深く苦しめてやまない根深い怨霊となったと考えられる。このようにみてくると,怨霊は一種の病いのごとく,家にとりついて離れないものである。それを物の怪ともいっている。物の怪の発生は[1]女の嫉みの心の働き,[2]家筋に祟ってつくものである。その語義は怨霊そのものとも解する。しかしそことは多少ちがいがある。よりましにかかる度合いがつよいというがどうだろう。ただ語義からいうと,ものによって起こる病気・怨霊によって生ずる病気で,正確には「もの・の・け」である。ものとは霊魂一般をさすばかりでなく,ものを化け物と解することさえ可能である。
【御霊信仰と怨霊】863年(貞観5)5月20日,清和天皇は,神泉苑において御霊会を催された。この日の記事に御霊として六座の神を祭った。六座とは,〈所謂御霊者・崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・及観察使橘逸勢・文屋宮田麻呂等是也〉とある。これでは五神,しかし観府使というのは実は藤原広嗣と考えられる。また清和の時には迎陵・十陵の指定がある。そこに指定された人々は,みな怨霊のごときものが多い。[1]天皇位を争って敗者となった人,[2]天智・天武系の抗争の敗者,[3]廃太子列伝にいきる人々,[4]非業の死,[5]託宣にいきる人々,[6]宮廷に祟る霊魂が多い。
〔参考文献〕須田春子『平安時代の後宮及び女司の研究』1982,千代田書房
池田弥三郎『日本文学と民俗』1982,桜楓社
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