●陰陽道 おんみょうどう
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【定義と典拠】古代中国におこった陰陽五行説を中心とする易(えき)の思想とそれにもとづく諸技術(天文・暦)をさし,日月星辰の運行・位置を考え,相生相克の理により吉凶を判じ,あらゆる思考や行動の指針を導き出そうとするところにおもな目的がある。【わが国への伝来】『日本書紀』によれば,わが国へは523年(継体7)7月百済から五経博士段揚尓が貢上され,526年(継体10)9月には五経博士漢(あや)の高安茂が来朝してこれと交代した。五経には『易経』が含まれているから,これがわが国最古の史料となる。欽明朝(6世紀中ごろ)にも百済より五経博士はじめ易博士施徳王道良や暦博士固徳王保孫らが来朝し,602年(推古10)10月,百済僧観勒が渡来し暦本はじめ地理書や遁甲・方術書を献上し,朝廷の命で陽胡史王陳(やこのおびとたまふる)は暦法を,大友村主(すぐり)高聡は天文と遁甲を,山背(やましろ)臣日立は方術をこれらの書について観勒から学び,それぞれその道の専門家になった。聖徳太子は冠位十二階の制定にあたり,五行に配当せられた色により各階級の冠の色を定め,憲法十七条の発布でも17の数は陰陽思想にもとづき,発布の604年(推古12)は讖緯説(しんいせつ)(政治上の変動予言説)にもとづく甲子革命の思想に立ってきめたものをいう。中国では漢代に宇宙万物の主宰者である天帝と専制君主が儒教の徳治主義によって結びつけられ,天帝は君主の政治の良否を祥瑞(吉)災異(凶)の現象をもって示すとの思想があらわれ,漢の武帝は祥瑞現象を誇張して自己の権威を天下に示すため元号をつくった。
【律令制における官僚化】わが国も大化改新で律令制を発足させ,政治理念として陰陽道を重視した結果元号制をとりいれ,大化・白雉・朱鳥・大宝・慶雲など祥瑞の元号をたて,奈良朝より平安初期元慶まですべて祥瑞思想をもって改元したが,以後は災異現象により天子が天帝の指示で自戒する意味の災異思想にもとづく改元に転じ明治維新に及んだ。天武天皇は天文・遁甲の術をよくし陰陽寮・占星台を創設した。かくて陰陽道は律令制のなかでその地位を確立し,陰陽寮は中務省の一機関となった。持統朝には法蔵が陰陽博士として初めてあらわれ,奈良朝のはじめ新羅僧隆観や義法ら陰陽家が還俗せしめられて金財(たから)・大津首(おびと)意毘登と改名し角録兄(ろくのえ)麻呂には羽林連の姓が与えられ,ともに陰陽官僚の幹部となった。奈良朝には大津大浦・吉備真備が有名で,730年(天平2)2月には東海・東山・山陰・西海各道に陰陽師1人が配置された。養老律令によれば,陰陽寮には天文・暦数・風雲・気色を掌り異状の事態には密封奏聞を行う頭が1人置かれ,その下に助・允・大属・少属各1人付属する。陰陽師は6人で占筮相地を掌り陰陽博士はl人で10人の陰陽生を教える。暦博士は1人で造暦と暦生10人の教育を司る。天文博士は1人で天文・気色を候し異状の事態には密奏し,天文生10人の教育を行う。漏刻博士は2人で守辰丁を率い漏刻の節を伺う。守辰丁は20人で漏刻のときをはかり,ときをもって鐘鼓を打つ。以上がおもな職員である。
【平安朝宮廷陰陽道の成立】平安時代に入り,藤原氏は良房のころより政権掌握に伴い陰陽道の禁忌を乱用して天皇や公家の拘束をはかった。843年(承和10)7月,嵯峨上皇の周忌斎会の日が天皇・太皇大后の御本命日に当たるとし,衆議の反対を押し切って一日繰り上げ,865年(貞観7)清和天皇が東宮より内裏へ移る際,御本命が午で移る方角が乾のため凶であるとし,一たん太政官に滞在し,いわゆる方違(かたたがえ)の先例を開いたのは,良房ら藤原氏の意向を反映したものである。かくて陰陽道は藤原貴族の御用的性格を帯び,宮廷陰陽道と変わり公家の有職の一部となった。光仁朝ごろから宮廷行事化した四角四堺祭は,元旦に清涼殿の庭で行われる四方拝とともに陰陽道の四神(青竜・白虎・朱雀・玄武)を祭るものであり,夏冬二季に天皇の御体を占う御体(おおみま)御卜の儀も陰陽道的亀卜をとり入れたもので,光孝天皇のころから恒例化した。宇多天皇は『周易』に関心深く,大学博士善渕愛成を師として学び,現在京都東山御文庫には勉学に使用した宸筆の『周易抄』が遺っている。村上朝右大臣であった藤原師輔は有職に詳しく『九条殿遺誡』『九条年中行事』を著し,陰陽道的作法と禁忌を記録した。そこでは九炊(きゅうかん)日・復日・重日等禁忌日が示され,またこのころより鬼門の思想が著しくなった。鬼門とは東北方にすむ鬼の出入する門であり陰陽道でこの方角を忌む。前漢武帝のころ(紀元前2世紀)東方朔が著したと称する『神異経』にそのことが説かれ,比叡山延暦寺は鬼門の崇りから都を守るため建てられたとする説が中世行われた。陰陽道官僚としては平安前期,春苑(ぞの)玉成・滋岳(しげおか)川人・藤原竝藤・弓削是雄など名人があり,とくに川人は多数の著作を遺したが,当時の占法は式(ちょく)占と称し,式盤を用い盤を重ねて回転させる複雑なものであったが平安中期には衰えた。
【陰陽道宗家の成立】一方このころより賀茂忠行が名手として頭角をあらわし,その子保憲は天文博士・陰陽頭にすすみ,その子光栄(みつよし)も暦博士・陰陽博士になった大家で,保憲の弟子安倍晴明もまたこれに劣らぬ逸材で,天文博士となったので保憲は従来伝えてきた暦・天文両職を分ち,光栄には暦道,晴明には天文道を伝えた。以後賀茂・安倍両家の下に暦・天文両道の支配体制ができた。晴明の子吉平は安倍氏としてはじめて陰陽頭となり,賀茂氏は光栄の孫道言よりその子孫相ついで頭に任じられ,ほとんど独占の観を呈した。
【宮廷陰陽道の隆盛】摂関全盛期は方違・物忌が日常茶飯事に行われ,方忌としては鬼門のほか天一神・大将軍・王相などの遊行の方角を忌み,祭儀では泰山府君祭が最も盛んで,これは中国山東省泰山の神ではやく仏教の閻魔大王と習合し,人間の寿命と福禄を支配すると信ぜられた。天曹(てんちゅう)地府祭は都状を奉って息災延命を祈るもので『朝野群載』にのせる後冷泉天皇と藤原爲隆の都状は,わが国で現在知られる最古の例である。院政期は陰陽道的禁忌が新しくつくり出された時代で金神万忌はその代表である。白河天皇のとき清原定俊が上奏して採用されるようになった。このころより陰陽家以外にも大江匡房・藤原通憲(信西)・同頼長などの大家が輩出し,安倍家からは泰親が出て指神子(さすのみこ)といわれ,とくに占験に優れた。源平興亡の激動期には政変や天変地異の卜占に活躍した。
【密教との習合と宿曜道の進出】これに対して暦道は人材なく不振に陥り,これに乗じて宿曜道(すくようどう)が進出した。これは密教の呪術と陰陽道の卜占が習合したもので,奈良時代には弓削道鏡や吉備真備が通暁したという。平安朝のはじめ空海が『宿曜経』を唐より舶載して以来盛んとなり,10〜11世紀には東大寺法蔵や真言宗の仁海が有名で,天台僧日延は中国より符天暦とその立成(解釈・方法)をもたらし,これにもとづいて占星術表ができ,暦の推算が行われたという。陰陽寮は1127年(大治2),1177年(治承1)の火災で重要な器物を失い衰退したが,漏刻鐘には薬師如来の眷属である十二神将の姿を鋳付けたものが使用され,陰陽道の密教化を物語る。中世には安倍晴明の『占事略決』が重んぜられ,いま鎌倉期の古写本が尊経閣文庫に所蔵されている。室町時代には賀茂在方が『暦林問答集』をつくり後世陰陽家の指南書となった。
【中世以後】戦国期,宮廷陰陽道は衰微し,賀茂家は在富のあと嗣絶え,土御門家(安倍家)の有脩が天文・暦両道を兼ねたが,その子久脩は豊臣秀吉に忌まれて若狭に隠遁し,1600年(慶長5)漸く徳川氏に召し出され近世の宮廷陰陽道を再興した。1890年(明治23)陰陽寮は廃止された。
〔参考文献〕村上修一『日本陰陽道史総説』1981,塙書房
滝川政次郎『元号考証』1974,永田書房
同『一代一度の天曹地府祭』「神道史研究」14−1〜4,1968
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