●オルレアン家 オルレアンけ
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フランス王家の筆頭格の分家。中・近世期の国王は,王領の一部を割いて親王領(アパナージュ)とし,王子たちに授けて処遇していた。これは有力な分家を生んで,国王をも脅かす勢力となった。もっとも親王領は男系世襲とされ,相続人がいない場合には王領に統合される規定があり,王領の分散化を防いだ。オルレアン家には四つの系譜がある。1344年,ヴァロワ王朝のフィリップ6世は,第5王子フィリップにオルレアン家の創立を許した。しかしフィリップには世嗣がなかったので,1375年に一代で断絶した。ついでシャルル6世の弟ルイが1392年にオルレアン家を再興した。ルイの子シャルル(1391〜1465)は,アルマニャック派の指導者としても詩人としても名声をはせたが,英仏百年戦争中のアザンクールの戦い(1415)でイギリス軍に敗れて捕われ,25年間にわたってイギリスに幽閉された。その子ルイ(1462〜1515)の時期,本家の国王シャルル8世が1498年に世嗣なく突然病没したので,ルイ12世として即位した。しかしルイ12世にも男子相続人がなく,娘のクロード=ド=フランスがオルレアン家の分家のアングレーム伯フランソワ(1世)と結婚し,ヴァロワ家とオルレアン=アングレーム家は統一された。フランソワ1世の後,王子のひとりがオルレアン公の称号を授与された。その後,ブルボン王朝のルイ13世は,1626年,弟のガストン(1608〜1660)にオルレアン家を復興させたが,ガストンは王位を狙って,たびたび陰謀に加わり,晩年はブロワで寂しく没し,世嗣もなかったので1660年にオルレアン家は断絶した。第4のオルレアン家は,ルイ14世の弟フィリップ(1640〜1701)が再建した。この家は現在に至っている。この家もたえず王位をうかがう傾向をもち,パリのパレ=ロワイヤルに住んでバリ市民の人気を集めていた。このため国王は警戒を強め,たとえばルイ14世は遺書のなかで,幼少のルイ15世の補佐役にオルレアン公ではなくメーヌ公をあてようとした。この遺書はルイ14世没後,パリ高等法院により破棄され,ルイ15世が成年に達するまで,オルレアン公フィリップ(第2代,1674〜1723)が摂政として統治した。摂政時代(1715〜1723)のフィリップは,ルイ14世時代の強大な王権を制限するために多元会議制を導入して権力の分散化をはかり,財政家ローを登用して硬直した国家財政の改革を企てた。また,革命時代のオルレアン家の当主フィリップ(平等公,1747〜1793)は革命を支持し,三部会や国民公会の代議士として活躍し,ルイ16世の処刑にも賛成投票をした。オルレアン家の悲願は,フィリップ(平等公)の長子ルイ=フィリップ(1773〜1850)が王位につくことで達成された。1830年の七月革命により,彼はチェールやラファイェットなど穏和なブルジョワ王政をのぞむ自由主義者(オルレアン派)に擁立され,「フランス人の王」として即位した。だが七月王政も結局,保守反動化し,1848年の二月革命によって彼はバリを追われてイギリスに亡命した。もっとも,彼を支持したオルレアン派はなお健在で,パリ=コミューンが終わったあとにも,オルレアン家のパリ伯を擁立して王政復古を画策した。これは失敗に帰し,第三共和政が定着するに従って,オルレアン家もオルレアン派も政治的な力を失った。
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