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●折口信夫 おりぐちしのぶ

アジア 日本 AD1887 明治時代

 1887〜1953(明治20〜昭和28)号は,釈迢空(しゃくちょうくう)。大阪府出身。歌人・国文学者。1887年2月11日生まれ。父秀太郎,母こう。

【家系】自撰年譜に詳しく,それによれば,〈2月11日,大阪市浪速区鴎町1丁目−−当時,西成郡木津村市場筋−−に生まれる。家名古くより折口。代々,木津(御坊)願泉寺門徒。石山本願寺根来落ちに絡む由緒を伝えた百姓筋。3代前から生薬屋を営む(岡本屋または岡彦を通称とする。明治初年,旧号に直って,折口を姓とした)。大和国高市郡飛鳥坐神社神主飛鳥直(アタヘ)助信の子造酒介及び(摂津国)西成郡今宮村上野氏の養女おつたを相養子として入縁(させる)。祖父母である。医を本業とし,旧来の家職を兼ねる。(三女がある。その)長女おかうの為,河内国茨田郡九个荘村名主福井氏の次男秀太郎を入れて,医業を継がす。女2人・男5人。2人夭死。生まれた時,末子として,尊親十数人を預く〉とある。

【学歴】1890年(明治23)4歳このころ,木津幼稚園に通う。1892年(明治25)6歳,木津尋常小学校に年弱で入学。1896年(明治29)10歳,大阪市南区竹屋町の育英高等小学校に区外生として入学。1899年(明治32)13歳,天王寺中学校に入学。同級に岩橋小弥太・武田祐吉・西田直二郎・吉村洪一らがいた。1905年(明治38)19歳,3月天王寺中学校を1年遅れて(落第のため)卒業。9月,国学院大学予科に入学。1907年(明治40)21歳,3月予科2年修了,本科国文科に入学。1910年(明治43)24歳,7月卒業。

【職歴】1911年(明治44)25歳,今宮中学の嘱託教員として,国語・漢文・学級訓育を担当。1914年(大正3)28歳,3月今宮中学退職。1917年(大正6)31歳,1月郁文館中学校教員。9月末郁文館免職。1919年(大正8)33歳,1月国学院大学臨時代理講師。1922年(大正11)36歳,国学院大学教授。1923年(大正12)37歳,6月慶応義塾大学文学部講師。1928年(昭和3)42歳,4月慶応義塾大学教授。1944年(昭和19)58歳,4月慶応義塾大学語学研究所第1部長。

【業績】折口信夫の業績は,[1]歌人として,[2]民俗学者として,この2点から成る。

 歌人としては,1910年(明治43)24歳の時,子規庵の東京根岸短歌会に出席。その後「アララギ」に投稿したりして,1917年(大正6)31歳の2月に,「アララギ」の同人になり,選歌を分担。だが,1921年(大正10)35歳,自撰年譜に〈此冬から,自然に「アララギ」に遠ざかる〉とある。1924年(大正13)38歳,4月に北原白秋等と「日光」創刊。翌1925年5月に処女歌集『海やまのあひだ』(改造社)出版。1930年(昭和5)44歳,1月歌集『春のことぶれ』(梓書房),9月『釈迢空集』(改造社)出版。1942年(昭和17)56歳,9月歌集『天地に宣る』(日本評論社)。1943年(昭和18)57歳,9月に小説『死者の書』(青磁社)出版。1945年(昭和20)59歳,詩集『古代感愛集』(青磁社)。翌年6月に,共著で歌集『山の端』(八雲書房)出版。1948年(昭和23)62歳,5月に『古代感愛集』で芸術院賞受賞。以上が主なものである。

 民俗学者としては,1934年(昭和9)48歳,6月に日本民俗協会成立,幹事となる。1943年(昭和18)57歳,4月大日本芸能学会発足,会長となる。著書としては,1929年(昭和4)43歳の4月に,『古代研究』(民俗学篇1,大岡山書店)を出版して以来,1944年(昭和19)58歳の3月に,『日本芸能史六講』(三教書院),1947年(昭和22)61歳の10月に『日本文学の発生序説』(斉藤書店)などがある。また,万葉学者としても著書がある。1916〜1917年(大正5〜6)の『口訳万葉集』3巻(文全堂)や1919年(大正8)33歳の1月に『万葉集辞典』(文会堂)などである。

〔参考文献〕『折口信夫全集』1954〜1956,中央公論社

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