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●オリエント

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 古代東方,すなわち地球上でいち早く原始・未開の域を脱して文明にすすみ,世界国家の時代まで絶えることなく人類発展の道をたどった地としての西アジアおよびエジプトの総称。広義には東洋・アジア全般をさす。現在ヨーロッパの諸国語になっているが,元来ラテン語の「起こる」「現れる」などの意味をもつ動詞oriorの名詞形oriensからおこり,「日の出」の意味から転じて「日の昇る場所・方向」「東方」を意味するようになった。これに対して「西方」を意味するオクシデンスoccidensは,「落ちる」「日が沈む」の意味をもつ動詞occidoの名詞形である。ローマ人がオリエンスといって「東方」を意味するときには,ふつうイタリア半島を境としてその東方すなわちギリシアをさし,ついで拡大してバルカン半島・北アフリカ・西アジア地方に適用された。しかしローマ帝国の膨張に伴い,ローマ人の東方に関する知識が増し,東方との絹交易が開けてくると,オリエントのさす範囲もまた拡大していった。オリエントが,地理的概念よりもむしろ文化的概念であるといわれる理由はここにある。その範囲は,時代による広狭の差はあるが,北はカスピ海,西は地中侮,南はインド洋に限られた西アジアと,古くはアジアの一部と考えられていたエジプトを含む広大な地域ということができる。歴史的にはふつう古代文明の発生から前4世紀末のアケメネス朝ペルシア帝国の滅亡までを古代オリエントといい,イスラームの成立を境として,その前後を中世と近世に分けることが多い。アレクサンドロス大王の東征以後,オリエントにギリシア文化が波及し,この地域の大半はヘレニズム=ローマの古代地中海世界に組み入れられるが,そこにはオリエントとオクシデントの融合と反発とが併存するものであり,オリエント社会の古来の性格には変化がなく,ローマ帝国が衰えるとともに,オリエントは再び東方文化の世界をとりもどした。7世紀以降急速に発展したイスラーム文化はその最たるものであり,それはイスラームを根本とし,ペルシア・エジプト・メソポタミア・インド・ギリシアなど,古代世界のほとんどすべての文化を融合・発展させたものであった。オリエントはイスラームによって,ますますその宗教文化圏をひろめていき,それに伴うアラビア帝国の勃興は古代地中海世界を決定的に解体に導くことになった。ヨーロッパが中世を脱して近代への道をすすむにいたったことについては,こうしたイスラーム文化の影響をぬぐいさることはできないのである。そしてそれ以来ヨーロッパとアラブ世界との原理的対立は勢力の消長を超えて存続し,現代に連なる歴史的起点としてきわめて重要な意義をもつ。近代の一風潮として,イスラーム文化にギリシア的要素を指摘してその独自性に異論を唱えるものもあるが,同時にそれはもちろん,西洋史の立場よりみたオリエントの位置づけであり,オリエント自体の自己展開はそれとは無関係ではないにしても,本質的にはイスラーム文化はオリエント文化の伝統の上に華開いたものであるといえる。したがってここでは,本来のオリエント文化の姿である古代オリエント世界,すなわちアレクサンドロス大王の東征以前に比重をおいて考察することにする。

【オリエントの風土と民族】オリエントは大乾燥地域に属し,大部分は不毛の砂漠や荒野で,山岳地帯にも森林はみられない。この地域で定住農耕生活が営まれるのは大河の流域に限られ,ナイル川流域のエジプトとティグリス=ユーフラテス川流域のメソポタミアおよびその中間に位置するシリア・パレスチナの海岸平野がその中心をなす。この砂漠のなかの緑の帯は,「肥沃な三日月地帯」と呼ばれる。この沃野を北方から取り囲むのは山岳高原地帯で,それはさらに北方の「北方草原」に連なる。またこの三日月地帯の内側は「南方草地」と呼ばれるアラビア砂漠である。「北方草原」は騎馬遊牧民,インド=ヨーロッパ語族の故郷であり,「南方草地」は遊牧民セム語族の原住地である。オリエントの歴史を通じて,つねにその主役を演じたのはセム=ハム語族である。セム族に属するのはアッカド人・アムルー人(バビロニア人)・アッシリア人・カルデア人・ヘブライ人・フェニキア人などが知られ,セム語族と親近関係にあるハム語族の代表がエジプト人である。これに次いで現代の「西洋人」の先祖であり,古代オリエント史の後半に活躍する騎馬遊牧民族がインド=ヨーロッパ語族(アーリア人)である。ヒッタイト人・ミタンニ人・カッシート人メディア人・ペルシア人などは,いずれも征服者として帝国の建設に成功している。このほか以上のいずれにも属さないヤペテ族がある。「人種のるつぼ」といわれるオリエントにおいて,先史時代から絶えず行われた民族移動により,いずれの民族もその混血化が著しく進行した。

【オリエントの歴史的推移】人類が狩猟・採取の獲得経済から,農耕・牧畜という生産経済に入ったことは,まさに画期的なことであった。家畜飼育・土器使用を伴う新石器農耕文化は,いわゆる「肥沃な三日月地帯」で始められたが,前8千年から前6千年ごろのあいだに,世界の他に先んじて実現されたのが,実にオリエントの腹縁地帯であった。古代オリエントの歴史社会は,前3千年ごろから,メソポタミアとエジプトにおいて出現する。すなわちそこでは灌漑農業が行われるようになった結果,農業生産が急激に増大し,原始農村から都市へと発展していく過程をへて,最古の古代文明が形成されていったのである。メソポタミアにおいては,ティグリス=ユーフラテス川の治水・灌漑の共同作業を必要とすることから,そこにおのずから集権的統一国家の成立をみた。メソポタミアは,地形上,周辺の遊牧民の侵入が容易であったので,しばしばセム語族もしくはインド=ヨーロッパ語族の遊牧民が農耕地帯を抑えて強力な領土国家をつくった。メソポタミアは,こうした国家のめまぐるしい興亡によって,オリエントの歴史的展開の主たる舞台となったが,そのもっとも早い現れが,前2800年ごろ,東方山地よりバビロニア南部に侵入したシュメール人であった。シュメール人がいつ,どこから南メソポタミアにきたのか,正確にはまだわからないが,彼らは30ないし40の都市国家を建設し,メソポタミア古代文明の原型ともいうべきシュメール文明を創造した。ウルク・ウル・ラガシュ・シュルッパク・ニップールなどは,彼らの代表的な都市国家である。シュメール人に少し遅れてシリア・アラビアの荒地に原住したセム語族アッカド人が来住し,その創始者サルゴン1世は,前2400年ごろ,ペルシア湾から地中海に及ぶ統一国家を初めて樹立した。この支配は長く続かず,その後同じセム語族バビロン第1王朝(古バビロニア)がおこり,ハンムラビ王(前18世紀)にいたって全メソポタミアを統一し,強大な専制王国を確立した。しかしこの王朝も前1530年ごろ,小アジアにおこったインド=ヨーロッパ語族のヒッタイトに打倒された。彼らはオリエントで初めて鉄器を使用した人々であった。約半世紀の混乱後,同じくインド=ヨーロッパ語族の騎馬民族であるカッシートが南メソポタミアに侵入して,約600年間バビロニアの支配者となった。またこの時期には,オリエント全域にわたって民族の大移動がみられ,外交的・文化的交流が盛んになった結果,前15〜前14世紀にヒッタイト・ミタンニ・カッシート・エジプトなどの諸国が対立する複雑な国際関係の時代,いわゆる「アマルナ時代」を現出した。しかしこの形勢も,やがてミタンニの支配下にあったセム語族のアッシリアの勃興によって大きく塗りかえられることになった。メソポタミアと並んで,世界最古の文明の発祥地であるエジプトは,「ナイルのたまもの」といわれるように,ナイル川が人々の大動脈であり生命線であった。治水・灌漑農業の必要上,統一国家の建設,確固たる支配機構の形成が不可欠であったことはメソポタミアと近似しているが,周囲に砂漠がひろがるという特異な地形により,異民族の侵入をさほどおそれる必要がなく,そのため統一を長期にわたって保持することができた。こうしてエジプトでは,メソポタミアと異なって,前三千年ごろには早くも王(ファラオ)によって統一的国家が成立し,それ以前の地方国家は行政単位のノモスとして中央王権に組み込まれた。前三千年ごろから前6世紀までに26の王朝が交替したが,これをふつう古王国・中王国・新王国の3期に分け,各王国のあいだにみられる過渡的な衰退期をそれぞれ第1中間期,第2中間期と呼んでいる。第2中間期に属する前17世紀の初め,セム語族の諸民族から成る遊牧民ヒクソスの侵入を許し,約2世期間支配された。しかしこの蛮族支配は,従来,平和的なエジプトの奮起を誘発することになり,やがてヒクソスを逐って新王国を樹立したばかりか,トトメス3世のころには逆にエジプトが西南アジアに雄飛し,テーベを首都として強盛を誇った。その後リビア・ヌビアなど周辺民族の台頭などもあって衰退し,ついに前663年アッシリアに滅ぼされた。なお王の強大な権力を物語るビラミッド(王の陵墓)は,古王国第3〜6王朝時代につくられたものである。オリエントには,メソポタミアとエジプトの二大文化圏以外にもいくつかの小国家が栄えた。地中海東岸のシリア・パレスチナの地方は,その地理的条件によって大きな民族国家の形成には適さなかったが,前2千年紀の前半にはカナーン人の商業的活躍がみられ,次いでアッシリアが勃興する前後から,異色ある小国家が建設された。このうち重要性を有するのは,フェニキア人とヘブライ人である。フェニキア人は,クレタ・ミケーネの海上貿易が衰えたあとを受けて地中海貿易に活躍した。ヘブライ人は,前1280年ごろ,モーゼに導かれて「出エジプト」に成功し,ヤーヴェ神の選民イスラエルとして,やがて王政をしいた。ダヴィデ・ソロモン両王のとき全盛を迎えたが,ソロモン王の死後,イスラエルとユダの2王国に分裂し,まもなくイスラエルはアッシリアに,ユダは新バビロニアにそれぞれ滅ぼされた。オリエントにおいて,最初の世界帝国を実現したのは,セム語族のアッシリアであった。このアッシリアは,前2千年紀の初めに北部メソポタミアにおこり,ニネヴェに都を定め,アナトリア方面との中継貿易に活躍した。前15世紀には一時ミタンニ王国の支配下におかれたが,やがて独立を回復し,鉄器で武装した有力な騎馬軍隊と戦車で周囲を征服しはじめ,サルゴン2世治下の前7世紀ごろには,その領土はメソポタミア・アナトリア・パレスチナをおおい,一時はエジプトをも含んで,全オリエントの支配を成し遂げた。しかしアッシリアは圧政と搾取が災いし,まもなく被征服民族の反抗にあってもろくも崩壊し,エジプト・リディア・新バビロニア・メディアの4王国に分裂した。アッシリア滅亡後,オリエントの主導権を握ったのは新バビロニアで,首都バビロンを修復して繁栄を誇ったが,前6世紀の中ごろ,イラン高原におこったペルシアによって滅ぼされ,ここにアケメネス朝ペルシアという空前の大帝国が出現して,オリエント史上に一大転機を画することになった。3代目のダレイオス1世(大王)のときには,西はエーゲ海北岸から,東はインダス川流域にいたるその版図は,アッシリアのそれをはるかに凌ぐ大帝国をつくりあげ,全オリエント世界の統一を完成したのであった。アケメネス朝ペルシア帝国は2世紀間にわたってオリエントを支配したが,前5世紀の初め,ギリシアを討って失敗し(ペルシア戦争),ついに前330年,アレクサンドロス大王の東征によって征服された。3千年におよぶ古代オリエントの歴史は,ヨーロッパとオリエントの決戦という世界史上の決定的な意義をもってここに終結したのである。

【オリエントの政治・社会】オリエントの歴史社会は,沃野の定住農耕社会と,その周辺に発達した遊牧商業社会の二つの要素から成り,このあい異なり,かつあい補う両者の生活形態が対立と交渉を通じて,次第にオリエント固有の文化圏を形成していった。治水・灌漑事業の上に成立する定住農耕社会では,トーテムに組織された氏族団体を単位とした定住集落が行われ,やがて数個の部族から成る地域的組織,すなわち国家が形成された。都市国家は,城壁都市とその周辺の田園部から成るもので,三千年の歴史を通じてオリエント社会の基底となっている。エジプトにはナイル渓谷に20,デルタに22のノモスがあり,メソポタミアには30ないし40の都市国家があった。これらはいずれも政治的・経済的・宗教的に独立した単位を成し,おのおの独自の市神をいただく一種の神権国家であった。市神の代理者たる神官は,その職が世襲される間に政治・経済・軍事の権を握って次第に専制君主に近づき,やがて神そのものと考えられるようになった。エジプトのファラオ(王)のごときは,まさしく「生ける神」として君臨したが,人民は等しく王の臣民であり,土地も原則的には王と神(神殿)の所有とされた。このようにオリエントの政治・社会は神権政治によって強く規制されたが,王がいくつかの都市国家を支配下におくにいたると,必然的に統一王国が形成されていった。そして注目すべきは,オリエントにおける統一国家の建設は,そのほとんどが遊牧民によって行われたということである。つねに自然の脅威にさらされる遊牧民の生活は,限られた牧草地の争奪のための絶えまない戦闘の連続であった。そのため彼らは無敵の戦士となり,優秀な軍事組織と能力とを身につけた。遊牧民は農耕地帯に徐々に侵入し,農耕社会が強力なあいだは臣従を誓い,定住社会が弱体したとみるや,直ちに征服者となって多くの都市国家を支配し,統一王朝を建てた。アッカド王朝・ハンムラビ王朝・新バビロニア王朝はいずれもセム語族遊牧民によって建てられ,カッシート王朝・ヒッタイト帝国・ミタンニ帝国・メディア王国およびペルシア帝国はインド=ヨーロッパ語族の騎馬民族の建設するところであった。アッカド朝以来の征服国家は,各地に統治と徴税のための総督をおいたのみで満足し,その内部組織までは干渉しないという方針を貫いた。服属国家はそのまま帝国の地方行政単位となり,同一の言語と神々の礼拝によって結合された。この寛大な間接統治の方式は,オリエントにおける以後の征服国家の規範となった。前7世紀にエジプトを含む全オリエントを統一し,最大最強の軍事国家となったアッシリアが短命に終わったのは,実にこうした寛大な間接統治の伝統を無視し,苛酷な属領収奪による異民族統治をおしすすめたからである。法治主義的統治,とくに成文法典を根本とした統治が,メソポタミアで一般化したのは,アッカド朝以後復興したシュメール人の第3王朝時代からで,その後バビロン第1王朝ハンムラビ王のもとで法制化が確立した。このことは,有名な「ハンムラビ法典」の存在によって明らかである。シュメール法を集大成した「ハンムラビ法典」は,実物が現存する世界最古の法典で,貴族・平民・奴隷の三身分を厳しく規定していた。オリエントにおける階級分化は,すでに都市国家の成立・抗争過程にみられたが,それが完成をみたのは遊牧民による征服王朝の樹立によってである。治水・灌漑の特殊条件において,神官は農業生産に関係の深い天文・暦などの知識の所有者として終始支配的役割を果たし,専制政治を補佐したが,インドのバラモンのごときカースト(種姓)的身分とはならなかった。これに対して遊牧民の征服王朝では支配民族のあいだに氏族的共有が存続し,貴族は厳密に他と区別され,その特権的身分が保護された。前二千年代のオリエントは,北方から侵入したインド=ヨーロッパ語族の遊牧民王朝の支配下にあったが,これらの征服国家においては戦士階級が唯一の支配階級であり,その身分は世襲的・カースト的なものであった。征服国家はいずれも商業・貿易に重きをおき,その他も通貨・度量衡の統一と隊商路(軍道)の拡大に力を注いだ。前6世紀の中ごろ,全オリエントの民族・文化の統合を成し遂げたアケメネス朝ペルシア帝国は,全国を約20の州に分けて各州に知事(サトラップ)をおき,「王の目」「王の耳」と呼ばれた監察官を派遣して中央集権の実をあげた。またアッシリアに学んだ駅伝の制によって世界情勢をつねに把握した。被支配民族に対しては,きわめて寛大な態度でもってのぞみ,自らはそれら各民族の進んだ文化を融合することにより,オリエント文明最後の華となった。

【オリエントの宗教・文化】先史ヨーロッパに先んじて,すでに高度の文明を展開した古代オリエント世界が,やがて政治および文化において西洋に著しく遅れるに至ったのは,専制王と特権をもつ神官の支配が,社会生活の細部にまで及んでいたからである。王権と宗教に束縛された古代オリエントの社会では,個性の自由な発展・自由な思想は許されず,いきおいその文明は生彩を欠くものとなった。しかもそこでは世界の諸現象を原理的にとらえようとする学術的精神は育まれず,測地術(エジプト)・60進法(バビロニア)・鉄器製造(ヒッタイト)など直接実用に役立つ知識が重視された。古代オリエントの社会では総じて宗教の比重が大きかった。いずれの地方でも多神教が支配的であったが,エジプトの太陽神アモン=ラ一,メソポタミアのバビロンの守護神マルドゥックなどは,一時国家の最高神として全国に崇拝された。エジプトではまた霊魂の不滅を信じて死体をミイラとして保存し,「死者の書」を残している。古王国時代,王の墳墓としてピラミッドを造営し,新王国時代にはスフィンクスオベリスクなどがつくられた。これに対して来世の信仰がないメソポタミアでは占星術が行われた。ペルシアではインド人と同じくアーリア系の神々を信じていたが,前6世紀ごろからゾロアスター教(拝火教)が中心となった。しかしオリエントの多神教の世界で,最も特徴的な宗教はヘブライ人の信じたヤーヴェ(エホヴァ)一神教である。出エジプト以来,ヘブライ人を指導する神となったヤーヴェは,その後のイスラエル・ユダ両国の亡国・捕囚という苦難のあいだにもよく信仰を保持され,やがて神に選ばれたユダヤ人のみが救われるという排他的な選民の思想や救世主(メシア)待望の観念が盛んになった。前539年,ペルシアのキュロス2世の新バビロニア征服により,捕囚の民はバビロンから解放されて念願の帰国を許されると,イェルサレムにヤーヴェの神殿を再建し,ユダヤ教が結成されるにいたった。ユダヤ教はモーゼ律法を遵守し,偶像崇拝を禁じた。このユダヤ教を母胎としてイエス=キリストによって創始されるのがキリスト教である。ヘブライ人が書き残した「詩篇」「ヨブ記」などは,のちにまとめられて『旧約聖書』となり,『新約聖書』とともにキリスト教の経典として,後代の西洋の思想・文化の大きな源泉となった。オリエント文化を語る上で,忘れることができないのが天文・暦・測地術の発明である。大河の氾濫に依存する灌漑農業社会において,それはなくてはならないものだった。エジプトで発明された太陽暦は,のちにローマに伝えられてユリウス暦となり,さらに16世紀末修正が加えられて今日用いられているグレゴリウス暦となった。文字はエジプトでは神聖文字(ヒエログリフ)とその略字体があり,金石文パピルス草からつくったパビルス文書として記された。メソポタミアでは楔形文字と象形文字が併用されたが,とくに楔形文字はシュメール人からペルシア人にいたるまで一様に用いられ,オリエント世界に広く普及し,やがてフェニキアにおいて音標文字,いわゆるアルファベット創出の勢力が試みられ,これがのちギリシアに伝播してギリシア・ローマ文字を生んだ。美術は神権国家を反映してピラミッド・スフィンクス・石造神殿・オベリスクなどの巨大な建築物を中心に発達し,彫刻・絵画・工芸はこれに従う形で発展した。

〔参考文献〕板倉勝正他編『古代オリエントの興亡』1966,新人物往来社

羽田明『西アジア史』(アジア史講座 VI)1957,岩崎書店

V.G.チャイルド『歴史のあけぼの』1958,岩波書店