●オランダ領東インド オランダりょうひがしインド
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現在のインドネシア共和国にほぼ相当する地域の植民地時代の呼称。わが国では蘭領東印度,蘭印などとも記した。この地域がオランダによって植民地化されるにいたった最初のきっかけは,1595〜1597年におけるハウトマンの船隊の東インド航海の成功であった。これ以降,オランダでは東インド航海を目的とした会社が続々と設立され,おのおのが船隊を派遣したのであるが,やがてそれらは1602年のオランダ東インド会社設立へとつながってゆく。東インド会社の目的はアジア地域の貿易支配にあり,当初は領土保有が意識的に避けられたが,海上交易支配を安定させるためバンダ諸島・モルッカ諸島・テルナテ・アンボイナなどでは商館を中心にしてしだいに事実上の政治支配が行われるにいたる。しかし,これらはなお拠点の確保にとどまるものであった。オランダ支配がより進展したのはジャワにおいてであった。ここでは1619年にクーン総督の手によりバタヴィア(現在のジャカルタ)に総督府が置かれてより以来,会社は数次にわたるマタラム王国の王位継承紛争に介入することなどを通じて,しだいに直轄領を拡大していった。獲得した地域では,在地の有力者層などを支配機構末端に組み込んだ間接的統治が展開され,また18世紀に入ると,西ジャワのプリアンゲル地方を中心に,コーヒーをはじめとする熱帯特産物の強制供出制が実施された。
18世紀末に会社が倒産して以降,しばらくのあいだはヨーロッパにおける政変の影響により東インドの支配者もしばしば変わり,一時的にイギリスの支配下に入ったこともあったが,その後,再びオランダ支配が復活する。そして,1824年の英蘭条約がイギリスとオランダの勢力範囲を決めたことにより,オランダ領東インドの範囲が確定するのである。オランダは1825年からのディポネゴロの反乱を鎮圧したのち,1830年からジャワに強制栽培制度を導入して,コーヒー・砂糖キビ・藍などの輸出向け作物の栽培を農民に強制した。このためジャワ農民は過重な負担に苦しんだが,オランダ本国の財政はこれにより大いに潤った。19世紀後半になるとこの制度は徐々に廃止されてゆき,民間資本が経営するプランテーションに代わられてゆくのであるが,この間にオランダの支配はしだいにジャワ社会の内部に浸透してゆく。とくに20世紀初めから開始された倫理政策のもとで,農村社会へのさまざまな形での介入が行われたことにより,ジャワ社会は大きな影響を受けた。他方,ジャワ以外のいわゆる外領部では,一部の地域を例外とすれば,一般にオランダの支配は弱く,現地の支配者がオランダと条約を結び,バタヴィア政庁の権威を認める代わりにその支配領域内については大幅な独立的権限を維持するという形が長く存続した。こうした枠組みに変化が生じたのは19世紀末〜20世紀初であり,この時期にオランダは積極的に外領部征服に乗り出し,アチェ戦争など各地の抵抗を破って実質的支配を拡大,かくして1910年にはオランダ領東インドの最終的な形が確定する。これらの地域では,このころから需要が急増してきたゴム・スズ・コプラなどの工業原料の生産が展開され,その経済的重要性はしだいに高まり,それとともにオランダの支配もより深く浸透した。
このような植民地支配の浸透は,当然これに対する民族的抵抗を発展させた。とくに20世紀に入ると,倫理政策のもとで西洋式教育を受けたエリート層を中心として,種々の民族主義的団体が結成され活動を開始するが,やがてこれらの運動のなかから,オランダ領東インド全体をインドネシアというひとつのまとまりとして独立させようとする民族意識が成長してくる。かくして,日本軍政・独立戦争をへて,インドネシア共和国が成立し,オランダ領東インドは消滅するのである。
〔参考文献〕J=D=レッグ,中村光男訳『インドネシア』1984,サイマル出版
永積昭『インドネシア民族意識の形成』1980,東京大学出版会
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