●オランダ商館 オランダしょうかん
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正式名,長崎商館1641年(寛永18)から長崎の出島に在ったオランダ東インド会社の商館。オランダ東インド会社が解散した1799年(寛政11)以後,オランダのバタヴィア(現代名ジャカルタ)政庁の商館になる。1853年(嘉永6)からはオランダの国策会社「ネーデルラント貿易会社」の日本貿易を代理する商館になり,以後,長崎オランダ領事が商館長を兼任した。1874年(明治7)ころ閉館。【職員】[1]商館長 幕府に対してはオランダ国王の派遣者であり,かつ会社の代表者。江戸参府を行う。幕命で任期1カ年とされる。会社に対しては会社利益の責任者であって貿易事務を指揮・管理し,ときに応じて評議会を召集する。商館日記を記す。オッペルコープマン(上席商務員)という職階(会社が定める階級)の者がこの職に任命される。[2]副商館長 商館長の助役であって,必要に応じて商館長を代理する。コープマン(商務員)階級の者がこの職につく。[3]倉庫長 出島諸倉庫の管理責任者。すべての物品の倉庫出納を「倉庫帳」に記帳し,毎年10月の会計年度末には商品棚卸(たなおろし)を行って「商品有高帳」を作成し,倉庫会計の決算を行う。商務員階級の者が任命される。[4]支出役 現金出納の責任者,また日本人が商館に納入する物品の受取責任者。人員は1名。倉庫長との兼任であることが多い。オンデルコープマン(商務員補)が任命される。[5]決算役 決算責任者。長崎商館は11月1日から翌年の10月末日までを一会計年度として決算を行う。決算書は前記倉庫会計決算書・商品有高帳とともに,商館長が奥書き・署名してバタヴィア本店に送られる。この職には商務員補が就任する。[6]書記 取引帳簿(仕訳帳・元帳)・倉庫書類・決算書などを記帳・作成する事務職員(クレルク)である。書記の首席をスクリバという。通常,商務員補より一階級下のアシステント(補助員)が書記(ブークハウデル)に任命される。[7]医務職員 外科・内科を兼ねる医者であって,上記の職員同様,職階制が行われ,上級医をシリュルハイン,下級医をバルビールまたはバルベルトという。上級医が配属されたことが多い。
【評議会】職員の多数決で議題を決定する議決機関。会の召集権は商館長にあるが,各人は議長すなわち商館長の意見に従う義務はない。つまり職員に対する商館長の指揮権から独立した議決機関である。ただし商務員補・補助員の階級の者・医務職員は意見を述べることはできるが,賛否の正式な意思表示権をもたない。送り状は商館長と評議会に宛てて送られて来る。
【輸出品】数量の比較的多いものは,金・銀・銅・樟脳・磁器。金輸出は1665年(寛文5)に始まり1753年(宝暦3)に終わる。同年までの89カ年の小判輸出量は125万7,862枚。商館の仕訳帳によって集計し,欠帳分(18カ年)を信頼度の高い他資料で補完したものである。小判とは別に,1721年(享保6)から1750年(寛延3)まで大判10万1,294枚を輸出する。大判1枚は小判の7枚半にあたるので,この数量は実質,小判の75万9,705枚に相当する。小判・大判はそれぞれ1枚を丁銀68匁・136匁の固定値で買って輸出する商品である。銀輸出は1667年(寛文7)までである。1641年(寛永18)から同年までの輸出量は12万9,722貫(48万6,457.5kG)。欠帳6カ年。同上の方法で補完。長崎商館の銅輸出は1646年(正保3)からであって,1799年(寛政11)までの輸出量は1億7,284万919斤(1億370万4,551.4kG)。このあいだの欠帳は34カ年。補完方法同上。樟脳は1641〜1799年の輸出量364万6,250斤(218万7,750kG)。このあいだの欠帳34カ年。輸出しない年23カ年。ただし信頼度の高い資科がないので補完していない。磁器は1652年(承応1)から輸出を始め1758年(宝歴8)に止む。輸出数量は81万7,315個・23束・10樽。欠帳分は同上の理由で補完していない。
【輸入品】銀建てで取り引きする。売上銀額では生糸・織物が最高。単価は低いが販売量の多いのは砂糖・蘇木・錫。生糸についていえば,取り引きは1747年(延享4)までである。1641〜1707年の販売量は497万8,852斤(298万7,311.2kG)。ただしこのあいだ27カ年の欠帳があるが,補完できない。
〔参考文献〕山脇悌二郎『長崎のオランダ商館』1980,中央公論社
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