50音順    検 索

●オランダ

ヨーロッパ オランダ王国 AD 

 正式国名,オランダ王国 KinGdom of the Netherlands ネーデルラントは低い土地という意味。日本語のオランダ(和蘭)は,オランダの有力州であったホラントのポルトガル語名に由来する。オランダの面積は約4万平方kmで九州と同じぐらいだが,その4分の1が海面下の低地。〈地球は神が創ったが,オランダは人間がつくった〉といわれるほど干拓の歴史は厳しく,国民は気概をもつ。人口は1,538万人(1996)で人口密度は1平方km当り385人。緯度では北海道より北のサハリン(樺太)に相当する場所に位置するが,メキシコ湾流の影響を強く受けて夏涼しく冬暖かな気候である。人口のほとんどがゲルマン系オランダ人でオランダ語を話す。政体は立憲君主制で,上下両院から成る二院制の議会をもつ。元首はベアトリックス女王(1980即位)。軍事的には北大西洋条約機構(NATO)加盟国で,首都は法制上アムステルダムとされているが,政府と議会はハーグにある。経済的には,地理的にヨーロッパ経済の大動脈の中枢に位置していることもあって,貿易商業が盛んである。世界一の荷扱い量を誇るユーロポートをもつロッテルダム,またアムステルダムのスキポール空港はヨーロッパの空の玄関として,ともにEC(ヨーロッパ共同体)の重要な地位を占める。また1959年に発見された世界有数の天然ガスによって,エネルギー輸出国となり,オランダ人は「木靴をはいたアラブ人」といわれるまでになった。農業では干拓地を利用した酪農が盛んで,乳製品・肉類が多く輸出され品質が良い。また園芸農業も盛んで,花・球根・野菜は重要な輸出品である。

【中世の歴史】オランダの歴史は,ほかのベネルックス諸国と同様に,たび重なる外来勢力の波に翻弄される歴史であった。その意味で外来勢力との関係・対応の仕方がこの国の歴史をみていく重要な視点となる。オランダの歴史時代は紀元1世紀のローマ時代に始まるが,5世紀に低地地方の大半はフランク王国に組み込まれた。しかしその支配は北部低地地方(オランダ)については十全のものでなかった。5世紀末からキリスト教が布教されるようになったが,北部への伝道は8世紀末のカールの登場をまたなければならなかった。カール大帝(在位768〜814)の時代にフランク王国の版図は大きく拡大され,本拠地に位置していたため低地地方の地位が高まった。大帝の没後政治的に分裂し,925年に低地地方は西フランク(フランス)領と東フランク(ドイツ)領に分かれた。この時代に在地豪族が自立性を高め,北部ではホラント伯領やユトレヒト司教領,南部(のちのベルギー)ではフランドル伯領などの封建諸邦が形成された。政治的統一の機運が現れるのは,14世紀にブルゴーニュ家(フランス王家の分家)が登場してからである。しかし15世紀にフィリップ善良公の跡を継いだシャルル突進公は統一的な国家の完成を急いで,1477年に戦死した。その後娘マリアがオーストリアのマクシミリアン(のち皇帝)と結婚したことで,低地地方は事実上ハプスブルク家の支配下に入った。さらにフィリップ端麗公がスペイン王女を妃としたことによって,ネーデルラントの歴史は世界的に大きく旋回することになる。

【16世紀前半】フィリップ端麗公のあと,1506年に息子のカールが低地地方を相続した。彼はやがてスペイン王となり,1519年に神聖ローマ皇帝となった。こうしてオーストリアからスペイン・新大陸の大半を包むハプスブルク帝国が出現した。この間北部(オランダ)では漁業と毛織物工業が発展し,とりわけホラント州は15世紀から「母なる貿易」と呼ばれるバルト海貿易を築きあげて,著しい経済発展を示し始めていた。そのなかでもアムステルダムは穀物貿易の一大中心地となって発展した。オランダの海外貿易は輸入品の多くを他国へ再輸出する中継貿易を基調とするものであって,この性格は現代まで続いているといえる。

オランダの独立】1555年カールにかわってフェリペが低地地方を治めるようになり,翌年彼がスペイン王になって,低地地方の政情は大きく変わった。スペインの新教に対する弾圧が強まるなかで,すでに16世紀前半に多数の信者を得ていた新教徒が反抗した。この抗争は武力抗争を激化させつつ一進一退を繰り返した。そして1568年エグモントら新教の有力諸侯が処刑されて,低地地方は恐怖に包まれた。同年新教勢力も抵抗を強め,アルバ公がこれに相対したことで,「80年戦争」(1568〜1648)とも呼ばれるオランダ独立戦争が始まった。反乱側ではオラニエ公ウィレム1世が指導者として人望を集めた。その後の政治情勢は複雑な経過をたどった。1576年に「ヘントの和約」が成立し,新旧両教の宥和と低地地方の統一が実現したかにみえた。しかし,新たに執政となったパルマ公の手で,1579年南部貴族がカトリックの擁護と国王への服従を誓うアラス同盟を結んだのに対して,同年北部七州と南部の諸都市はスペインと戦うためにユトレヒト同盟を結成した。そして1581年にユトレヒト同盟はスペイン王に対する臣従拒否の宣言を行った。このころユトレヒト同盟に加わった南部の都市が次々とパルマ公によって再征服され,1585年にはアントワープも陥落した。1584年にオラニエ公も暗殺されたが,北部七州で構成する連邦議会が大きな役割を果たすようになった。ホラント州オルデンバルネフェルトが実質上の指導者となり,オラニエ公の息子マウリッツが軍司令官(総督)となった。こうしてオランダ共和国が成立した。マウリッツは1600年ごろまでに共和国の全土を解放し,独立は事実上達成された。1609年のスペインとの12年の休戦条約締結は,スペインのオランダ独立承認を意味した(国際法的な承認は1648年のウェストファリア条約による)。

【黄金時代】17世紀初めまでに,オランダはヨーロッバで最も進んだ経済をもつ国になっていた。オランダ経済の繁栄をもたらした要因として,[1]15世紀から培われた商業・海外貿易活動の躍進的発展,[2]ライデンなどの毛織物工業・麻織物工業の発展,[3]スペインに再征服された南部の商人・職人・ユダヤ人の移住と定着による経済社会の活性化,[4]1602年に設立された東インド会社によるアジアへの本格的な商業的進出などがあげられる。また繁栄を背景として17世紀には広大な面積にわたって干拓が行われた。そのようなオランダ共和国を支配したのは,当時の他の諸国と違って海外貿易によって産を成した大商人層,なかでもアムステルダムの大商人であった。彼らによって共和国は独立の主権を有する七つの州(ホラント・ゼーラントヘルデルラント・ユトレヒト・フリースラントオーフェルエイセルフロニンゲン)の代表が協議する,ゆるやかな国家体制がつくられた。大商人が市政を掌握して都市貴族門閥層を形成した。とくにアムステルダムは共和国予算の60%近くを負担したために影響力が強く,事実上オランダの支配者となった。しかし,政治的抗争は激しく,共和国の政治史は,総督職を継承したオラニエ家を中心とした貴族・カルヴィニストから成る「総督派」と,連邦議会を握る都市貴族層の「議会派」の抗争史であり,両派が交互に政権を握った。議会派の指導者として16世紀後半に活躍したデニウィットが名高い。

【小国の運命】オランダの全盛期は17世紀であるが,世紀後半になるとイギリス・フランスから強烈な挑戦を受けるようになった。1652年からほぼ10年おきに英蘭戦争を繰り返しただけでなく,1672年にはルイ14世治下のフランスに国土深く侵入され,たび重なる戦乱で大きな損失をこうむった。こうして小国オランダの繁栄の基盤が崩されて,ヨーロッパはイギリス・フランスを軸とする列強抗争の時代に入り,オランダはこれら強国のはざまでその歴史を大きく左右されるようになった。また17世紀末からオランダの経済的活力はしだいに失われ始め,商工業活動で富裕となった都市貴族は実業から離れて金融業者・利子生活者になった。一般民衆は貧困と失業に苦しみ,オランダ全体が精神的無気力に陥っていった。オーストリア継承戦争(1740〜1748)にさいして,オランダは再びフランス軍の侵入を受けた。この危機にあたってオランダの民衆運動が高まり,門閥市民層に対抗する民主派の政治運動が展開され急進化していった。1795年革命下のフランスの対外膨張のもとでオランダ共和国はその歴史を閉じ,バタヴィア共和国(1795〜1806)が建設された。新国家は州主権やギルドの特権を廃止し東インド会社の解散を行い,また民衆の怨嗟の的であった国内消費税の廃止など一連の改革を行った。そして1806年にナポレオンが弟ルイをオランダ国王に任命し,ここにオランダ王国が誕生した。しかし,ナポレオンはその大陸封鎖令に違反していたオランダ王国を1810年フランスに併合したため,ここにオランダ国家は地上から一時消失したのである。また大陸封鎖令が厳格に実施されたため,オランダの貿易は壊滅に瀕し,国家財政は破綻して市民は貧困に苦しんだ。

【近代化への歩み】1813年にナポレオンが没落したのを機に,オランダ各地で民衆蜂起がおこり,イギリスとプロイセンはフランスにあたらせるために,ベルギーとリエージュをオランダ領に組み入れた。翌年ウィレム1世が即位してベルギー住民の意向を無視した新憲法を制定し,オランダ王国が建設された。ウィレム1世はオランダ経済の復興をめざして,北部(オランダ)の商工業と南部(ベルギー)の工業を統合した国民経済を建設しようとしたが,国家の統合は進まなかった。フランス化の進んだ南部にもオランダ優先主義を強要し,ベルギー住民の憎悪をかった。そして1830年8月に,パリの七月革命に触発されてブリュッセル市民の暴動がおこると,騒動はベルギー全土にひろがり,10月にはベルギー王国の独立が宣言された。こうしてオランダ王国の南部地方はベルギーとして独自の道を歩むことになった。ベルギーの独立によって現代につながるオランダの領土ができあがった。この時期に政府は,オランダ領東インド植民地の経営に悪名高い強制栽培制度を導入して利益をあげる一方で,東部のトゥエンテ地方に新しく綿工業をおこした。しかしウィレム1世の強圧的な政治のもとで,少数派となったカトリック教徒の信教・言論の自由の要求や,ブルジョワジーによる責任内閣制の要求が高まり,彼は1840年に退位した。このように自由主義運動が高まったなかで,ライデン大学教授トルベックの指導で1849年改正憲法が発布された。責任内閣制・直接選挙・議会による単年度予算審議が実現し,信仰・教育・言論の自由が保障されたことによって,オランダは真の立憲君主制国家となった。19世紀中ごろトルベック自身が3次にわたって内閣を組織し,自由主義国家としての内政改革に大きな功績を残した。このように,1860年ごろまでにはオランダは近代国家としての体制を整えた。ところで1860年代ごろから,オランダでも産業革命が進展し,労働者や下層市民の運動が高まりをみせた。彼らは選挙権の拡大を要求し,19世紀末までにかなりの成果をあげた。

【20世紀】19世紀末から20世紀にかけて,オランダ社会は大きな転換期を迎え,1897年に成立した最後の自由党内閣はさまざまな社会立法を行った。20世紀に入ると連立政権が続いたが,左派連合政権が1913年に成立した直後,第一次世界大戦が勃発した。オランダは一貫して中立政策をとったが,列強に囲まれていたため多大な影響を受けた。1917年以後は,ドイツの無制限潜水艦作戦でオランダの海上貿易はほとんど停止した。しかし大戦中に国民的な意識が高揚し,また戦後いちはやく8時間労働や老人・身体障害者保険などの社会改革が実行された。同時に,1917年念願であった普通選挙法が成立し,1919年には婦人にも参政権が拡大された。 1920年代に入ると,大戦後一時回復した経済も,インフレーションや失業・国庫の窮乏によって経済危機にみまわれた。そうした最中にオランダ経済は1929年に始まる世界恐慌に巻き込まれ,1935年には失業者は40万人を超えた。1936年にオランダは金本位制を廃止し,通貨の平価切り下げを行ったため経済はややもち直した。しかし1939年の第二次世界大戦の開始によってオランダは第一次世界大戦をはるかに上まわる悲惨な歴史を経験した。オランダは中立政策をとったが,1940年5月ドイツ軍に突如侵入され,5月14日降伏した。これから1945年5月の,連合軍による解放まで,占領下で苦しい時代を過ごした。ユダヤ人や占領軍に服従しない多くの青年がドイツに送られ,地下抵抗も激しさを加えた。とくに1944年から翌年にかけての冬に数千人の人々が飢えと寒気で死亡した。この戦争で25万人の人命を失い,また堤防の破壊によって水浸しになった土地も多かった。ベネルックス三国はすでに大戦中に結成していた「ベネルックス関税同盟」で経済統合をはかったが,これは第二次世界大戦後(1948)「ベネルックス経済同盟」に発展し成果を収めた。また終戦と同時に旧植民地であったインドネシアが独立を宣言したが,武力介入のあとで,オランダはハーグ協定(1949)によりその独立を認め,広大な植民地を失った。しかしながらオランダは,他のベネルックス二国・フランス・西ドイツ・イタリアとともに1950年「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」を形成し,さらにこれが母体となって1957年に「ヨーロッパ経済共同体」(EEC)の結成へと進んだ。今日までオランダはその中枢的役割を果たして着実に発展してきた。オランダは高い生産水準と文化をもち,完備した社会保障制度をもつ小国として,統合化の進む西ヨーロッパで独自の活躍の場をみいだすことを自国の歩む道としているようである。

【宗教】宗教上オランダはプロテスタントの国として知られているが,今日ではむしろカトリックの方が多く全体の40%を占め,プロテスタントは38%を占める。新教徒の約3分の2がオランダ改革派に属し(王室もこの宗派),ほかに19世紀末にカイペル(のち首相となる)の革新運動で分離した革新派教会がある。16世紀前半のころには,本格化した宗教改革運動がいちはやくオランダに流入し,再洗礼派がとりわけ下層市民層に多数の信者を得た。この派はその後穏健な宗派に変質して普及した。またオランダにとって最も重要なカルヴァン派もこのころ浸透して,商人・手工業者,また一部貴族層に定着した。その後低地地方の新教徒はスペインの弾圧によって幾多の試練を経験した。共和国時代には,神への服従を説く予定説を奉じるカルヴァン派(ホマルス派)は都市の中・下層市民のあいだにひろまり(=総督派),また選ばれない者にも神の恩寵が及ぶとしたアルミニウス派都市貴族に受容される(=議会派)というように,総督派議会派の政治的対立には宗教上の対立が絡み,社会的な問題となったのである。

【思想・文化】オランダでは15世紀末ごろから独自の文化が生まれたが,16世紀前半にかけて活躍したロッテルダムのエラスムスは『痴愚神礼讃』で名高い。彼はのちのオランダ思想の伝統となった寛容の理念を培った。共和国時代は経済的繁栄を受けて文化が全盛を迎えた時代である。1575年に創設されたライデン大学は医学などで有名になり,法学で名高いグロチウスが教壇に立ち,また新教神学のメッカとしても盛えた。哲学で独自の思索を展開し『エチカ』などを著したスピノザ(スペインを追放されたユダヤ人の家系に生まれる)も活躍した。このように16世紀以降,オランダは自由を求める人々にとっての避難所となり,これらの人々によってオランダ文化は豊かなものになった。オランダ文化の性格は市民的なものであるとともにコスモポリタン的な性格をもつものでもあった。オランダ文学は絵画ほどの隆盛はみられないが,17世紀にはオランダ最大の詩人といわれるフォンデルが現れ,また19世紀には植民地の強制栽培制度を告発した小説『マックス=ハーフェラール』を著したデッケル(筆名ムルタトゥリ)やベーツが活躍して,国民文学の復興がなされた。その後1880年代には,詩人クロースやホルテルなどが「80年代派」の作家として文学革新運動をおこした。20世紀には占領中の抵抗運動を扱ったフランクやヘルマンスの『ダモクレスの暗い部屋』が名高い。オランダの学問の全盛期も17世紀で,法学・神学のグロチウス,振子時計を発明し土星の環を発見したホイヘンス,生物学のスワメルダムレーウェンフックが活躍した。19世紀には物理学者のローレンツワールスなどが活躍し,20世紀においては自然科学が大いに発展した(1982年までのノーベル賞受賞者12人のうち自然科学者は10人)が,『中世の秋』で知られるホイジンガのような優れた歴史家をも生み出した。

【芸術】オランダ文化では,美術が西ヨーロッパを代表する国といえるまでに高い水準を有した。この美術もまた16世紀から17世紀にかけて隆盛期を迎えた。オランダ美術の揺籃期は15世紀であるが,ハーグのヤン=ファン=アイクが名高い。16世紀にはヤン=ファン=スコーレルやヤン=コルネリッツなどを輩出したが,ことに17世紀に入って,レンブラントフランス=ハルス,それにフェルメールといった巨匠が相ついで現れた。レンブラントの生涯(1606〜1669)はちょうどオランダ共和国の全盛期にあたっており,この時代を〈レンプラントの世紀〉(ホイジンガに同名の著作がある)と呼ばれるほどである。もっとも彼らの題材はきわめて市民的なものであり,すなわち個人の住宅に飾る静物画などの小さな絵画や銅版画が好まれた。また個人の肖像画や集団肖像画も描かれた。後者についてはレンブラントの『トゥルプ博士の解剖学講義』や『夜警』,フランス=ハルスの『ハールレム市警備隊士官たちの宴会』はその最高傑作といえるものである。またヤン=フェルメールは風景画(『デルフトの風景』)や光の繊細な効果のもとに平凡な女性の姿をとらえた(『水差しをもつ女』)。19世紀にはフランスで活躍したゴッホが出て,オランダ絵画は近代美術史上に不滅の足跡を残している。また音楽ではアムステルダムのコンセルトヘボウ(音楽堂)管弦楽団がヨーロッパ屈指のオーケストラとして有名である。

日蘭交渉史】日本は,オランダとは他のヨーロッパ諸国と比べて格段に長くかつ深い関係を有している。オランダとの関係は1600年(慶長5)にリーフデ号が漂着したことに始まるが,この船のイギリス人船員アダムズ(三浦按針)は徳川家康の顧問となった。オランダは1609年平戸に商館を建設することが認められ,商館は鎖国(1639)後の1641年(明正18)に長崎の出島に移された。鎖国のあいだも,オランダは生糸や毛織物・香料・砂糖をもたらし,日本からは金・銀貨や銅・樟脳をもち出した。鎖国時代の日本にとって,オランダは西洋に向けられた唯一の窓であった。出島の商館長が江戸に参府するさいに提出した「オランダ風説書」は唯一の世界情報であった。また1810年代にオランダ国家が地上から一時消滅したさい,植民地もイギリスに奪われたため,オランダ国旗が世界でただ1カ所翻ったのが日本の出島であったというエピソードもある。またオランダの学問は,蘭学として日本の文化に非常に大きな影響を与えた。

〔参考文献〕栗原福也『ベネルクス現代史』,1982,山川出版社

C.ウィルソン,堀越孝一訳『オランダ共和国』,1971,平凡社

J.ホイジンガ,栗原福也訳『レンブラントの世紀』,1968,創文社

01

02

03

04

05

06

07