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●オラニエ家 オラニエけ

ヨーロッパ オランダ王国 AD 

 オランダ王国の統治者として存続している大貴族。起源は,ドイツ=ディレンブルヒのナッサウ伯であり,これが15世紀,南フランスのオランジ公爵領をも併有し,ネーデルラントにも多くの所領をもつ,この地域有数の封建土地貴族であった。オラニエ家はオランダ独立戦争を戦い抜く。オラニエ公ウィレム1世カール5世の側近で厚遇をうけていた。しかし1566年ごろから始められたネーデルラント反スペイン運動のなかで,ホラント・ゼーラント両州の反乱側の外交・軍事での指揮者となっていった。反乱の拡大とともに,ネーデルラント北部7州は彼を新生オランダ連邦共和国陸海軍の総司令官である総督の地位にすえる。しかしこの共和国内部では,貴族・中小市民のカルヴィニストたちはこのオラニエ家を頂点におく「総督派」を形成して,中央集権体制を狙う。他方大商人が中心であった都市貴族層は,むしろゆるやかな連邦制を是として「議会派」を形成する。この共和国がフランス革命軍の侵入によって崩壊する1795年まで,この国の政治の舞台には両派が交代しながら現れた。

 ウィレム1世はオランダ独立戦争の渦中で暗殺されたが,その子マウリッツは優れた武将であり,小規模編成の歩兵隊,それと新しい築城法によりスペイン軍を敗退させた。彼の戦略そして戦術は,三十年戦争におけるプロテスタント側にひろまっていった。17世紀オラニエ家の歴史にはウィレム2世の子ウィレム3世が総督のままで,イギリスのメアリ2世との結婚によりイギリス国王ウィリアム3世としてドーバーを渡った事件がある。英語を使えなかったと伝えられる彼は,イングランド議会との良好な関係を続け,外交でもフランス絶対王制の強大化を抑えるべく,オランダそしてハプスブルク帝国と同盟しながらスペイン継承戦争を行った。彼の時代にイギリス-オランダ関係が円滑になっていった。彼には後継者がなく,その死後は分家のナッサウ伯がオレンジ公家を相続する。

 オーストリア継承戦争(1740〜1748)に,オレンジ=ナッサウ家のウィレム4世がオランダ連邦共和国の総督に就任したが,国内では彼の後継者のウィレム5世にむしろ「議会派」寄りの富裕な商人・都市貴族が結びついた。一般民衆とインテリは逆に「民主派」を形成する。この派には一部の都市貴族そして反改革派教会の信徒も加わり,「愛国党」を結成した。ウィレム5世フランス革命軍ネーデルラント侵入とともにイギリスに亡命した。パタヴィア共和国が倒れた後の1814年,ウィレム5世の子ウィレム6世はイギリスから帰国し,ネーデルラントの南・北両地域を統合したネーデルラント王国のウィレム1世と名のる。しかしながら,オランダ独立戦争後2世紀以上も分離していたこの両地域は,経済・文化そして政治の分野であまりにも離れすぎてしまった。このなかでネーデルラント北部を重視した政策を強行しようとするウィレム1世政府に対して南部は強く反発し,1830年のフランス七月革命の成功に呼応してブリュッセルでも暴動が発生し,この勢いは南部全域にひろがり,結局ベルギーが成立し,ネーデルラントは再び分離して現在にいたっている。

 オランダは依然としてオラニエ家を首権者として政治の頂点においているが,19世紀後半以降,ここの議会政治は参政権の拡大もあって発達している。それとともにオラニエ家の人々は,しだいにオランダ国民の精神的支柱となるべくつとめている。ヨーロッパにおける貴族制の国際化のなかで,オラニエ家は国民とともに歩むという北欧型立憲君主制を維持している。現在のベアトリス女王はオランダ王国6代目の首権者である。

〔参考文献〕栗原福也『ベネルクス現代史』1982,山川出版社