●臣 おみ
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古代の姓(かばね)の一種。臣の初見は,埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳出土の鉄剣銘である。この銘文には,辛亥の年の年紀が記されているが,そこに〈多加利足尼〉と並んで,〈乎獲居臣〉の名が系譜にみえる。辛亥年は,一応雄略朝の471年に比定されるから,少なくとも5世紀後半には足尼(宿祢)や臣を名に付して呼ぶことが行われたことは明らかであろう。“オミ”は,古来から,「大身」や,大・貴・美のomに由来すると説かれるように,豪族の尊称であったらしい。ただ,大和政権がこれらの豪族を服属させていくと,しだいに臣下の身分を称呼する姓の一つに位置づけられていった。大和政権を構成する中央豪族にあっては,臣は大和盆地やその周辺の畿内地方の土豪層に与えられる姓であり,高位の姓とされた。武内宿祢の後裔氏族と称する葛城・平群・巨勢・紀・蘇我の各氏はすべて臣を姓としている。そのほか,和迩(わこ)氏の一族春日・大宅・小野・柿本などは臣である。大彦命の後裔という阿倍氏も臣を称するが,先の稲荷山古墳の鉄剣銘に登場する「乎獲居臣」も「オオヒコ※注1※」(大彦命)の子孫といわれている。このような中央氏族だけでなく,地方豪族にあっても吉備臣や出雲臣などのように臣を称するものもいた。地方の豪族のなかでも,有力者には臣を与えることもあったことを示している。これらの豪族は,すべて地名を冠していることからも知られるように,畿内や地方の有力氏族で政治的発言権の強い氏族であった。大和政権も,6世紀ごろになると大臣・大連という執政官が,政治の中枢にあって政治をとるという形態がととのえられていった。大臣は,臣系氏族の代表で,初め,葛城氏・平群氏が大臣となったが,失脚すると,やがて蘇我氏がこれに代わった。これに対して連系氏族は,物部氏や大伴氏であった。部や伴の文字から知られるように,彼らは早くから天皇家に直属し,皇室の伴造を率いる氏族であった。その代表者は,「大連」と称して,大臣と並んで執政官となったが,初めは大伴氏,ついで物部氏がこれに代わった。646年(大化2)正月の改新の詔に,〈臣,連等,伴造,国造,各己が民を置く〉といわれているように,臣らは部曲(かきべ)と称する私有民をもち,田荘という私有地を所有していた。改新後は,これらはすべて公収されたが,代わって封戸(ふこ)や官位を賜って,中央官人層や地方の譜代郡司層になった。685年(天武13)に八色の姓の制がしかれるや,石川臣・阿倍臣・紀臣ら52氏は朝臣を賜っている。朝臣は第2位の姓である。このとき,臣以外で朝臣を賜姓されたのは,大三輪君(おおみわのきみ)・物部連(もののべのむらじ)・中臣連(なかとみのむらじ)・鴨君(かものきみ)・犬上君(いぬがみのきみ)・上毛野君(かみつけぬのきみ)・胸方君(むなかたのきみ)・車持君(くるまもちのきみ)・綾君(あやのきみ)・下毛野君(しもつけぬのきみ)・佐味君(さみのきみ)・大野君(おおののきみ)・池田君(いけだのきみ)の13氏にすぎない。これらは連や君姓を称するが,司祭者的豪族や地方の有力豪族であることは注目されてよい。それに対し大伴連・尾張連ら50氏には宿祢を賜姓している。ここで注意したいのは,従来の臣姓の氏族は朝臣に列せられたが,八色の姓の六位には臣が設けられている。つまり,眞人(まひと)・朝臣・宿禰・忌寸(いみき)・道師・臣・連・稲置の順である。ちなみに臣は,“使主”とも書かれることがあったらしい。『顯宗紀』に〈使主これをおみという〉と注されているが,『安康紀』に坂本臣祖根使主を『古事記』では,坂本臣祖根臣と表記する例があるので,使主は臣と同じものとみなしてよかろう。しかし,時代が下ると,臣と使主が同じ意味であるかどうかは詳らかではない。『新撰姓氏録』には,末使主(すえのおみ)(和泉国神別・山城国諸蕃)・和楽使主(左京諸蕃)・小高使主(左京諸蕃)・後部薬使主(左京諸蕃)・長田使主(未定雑姓河内国)などと,多くは諸蕃の部類の氏族,つまり渡来人(帰化人)系氏族に使主姓が与えられている。以上は娘としての臣であったが,それとは別に宮廷に仕える者の意で臣を用いる場合がある。『仁徳紀』に宮人桑田玖賀媛を,〈水底う 臣の少女〉と称しているし,『万葉集』には石川朝臣麻呂が,越前守に任ぜられたとき,和する歌に,〈もののふの 臣の壯士(おとこ)は 大君の任(まけ)のまにまに聞くというものぞ〉と歌っている。
〔参考文献〕阿部武彦『日本古代の氏族と祭祀』
太田亮『日本上代に於ける社会組織の研究』
津田左右吉『上代史の研究』
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