●お遍路 おへんろ
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日本の代表的巡礼の一つである四国遍路のこと。四国遍路とは四国一円の,おもに海岸沿いに散在する88寺を次々に巡る,全行程1,200km以上にのぼる長大な巡礼である。日本の巡礼は大別して直線型と曲線型(巡り型)の二類型あるが,四国遍路の後者の型の典型例である。直線型とはおもに一カ所の聖地を参拝目標とするものであるが,曲線型は複数の聖地を順次巡っていくタイプで,西国33カ所観音巡礼も曲線型の代表例である。【遍路の内容とその成立】四国遍路の第1番札所は徳島県の鳴門市の近くで,順次徳島県を南下して高知県の室戸へいたる。そこから高知県を西へ横断する方向で足摺岬へいたり,それより愛媛県へ入る。松山市を中心にほぼ愛媛県を海岸沿いに横断して香川県へとすすむ。香川県では西から東へと札所を巡拝して,最後の第88番は徳島県境に近い山中にある。四国遍路の巡礼道は右回りで,ほぼ楕円形を描いている。四国遍路は,伝説上では真言宗を開いた弘法大師空海が,生前中に修行して歩いたゆかりの寺々より構成されているといわれているが,歴史学上からみて,この説を承認することは困難である。88カ寺のなかには確かに空海ゆかりの寺も数カ寺含まれているが,多くの寺と空海との関係は不明である。平安時代末期になると,『今昔物語』や『梁塵秘抄』の中に四国遍路のことが触れられ始めるが,88という数は述べられていない。当時の四国遍路を巡っていた人々は,もっぱら修行僧で,このような傾向は鎌倉時代になっても根本的には変化しなかった。ごく限られた階層の人々だけが巡る霊場だったのである。
【巡礼の民衆化】四国遍路の様子が一変するのは,他の巡礼と同様に江戸時代に入ってからである。巡礼の歴史におけるこの時代をひと言でいえば,巡礼の民衆化である。それまでの巡礼が貴族・武士・修行僧など限られた社会階層の人々だけであったのに対し,江戸時代の巡礼を担った社会層は民衆層であった。これをもたらした原因には,農民層の経済力の向上・都市住民の出現・交通網の整備・封建体制下における巡礼に対する特別の扱い,などをあげることができる。その結果,それまでの時代には考えられなかったような側面が巡礼に生まれることになった。その一つが巡礼の娯楽化である。一般民衆が楽しみのために巡礼に出かけた結果,有名な巡礼地のまわりには参拝客を目当てにした土産物屋街や歓楽街が出現した。一方,厳しい封建体制下の生活から脱落した人々は,巡礼者に身をやつして巡礼地を巡った。歴史学者新城常三によれば,江戸時代には[1]中世以来の修行を目的とした敬けんな巡礼者,[2]遊楽を目的とした巡礼者,[3]乞食を旨とした職業的巡礼者,の三つの型があったという(『社寺参詣の社会経済史的研究』)。
【乞食遍路】四国遍路の場合,遊楽化の傾向は他の有名巡礼地と比較してそれほど顕著なものとはならなかった。それは,依然として四国遍路を巡ることは苦行であったし,四国には観光的要素が乏しかったためである。逆に四国遍路に著しかったのは,乞食遍路であった。その理由は,一般には四国遍路では接待の習慣がきわめて盛んだったからと推測されている。接待とは,巡礼者に対して沿道の人々が無償で金品を提供することである。弘法大師信仰の特殊性から,四国では遍路者=弘法大師という信仰があった。四国遍路にハンセン病患者の遍路が多かったのも同じ理由である。かつてハンセン病患者は不当にも村落共同体から放逐され,放浪の生活を余儀なくされた。接待の慣行が盛んなため四国に入った者も少なくなった。明治時代以降も四国遍路は比較的,伝統的な姿をとどめていた巡礼であったが,第二次世界大戦より今日までのあいだに,その全体像は大きく変わった。かつては古くさいものとして敬遠されがちだった四国遍路は,脱都市化や反近代化の時代趨勢のなかで,未曾有の巡礼者を迎えるようになった。徒歩の巡礼はほとんど姿を消し,観光バスやタクシー・マイカーで巡拝する方法が当たり前となったのである。
〔参考文献〕近藤喜博『四国遍路』1971,桜楓社
真野俊和『旅のなかの宗教−巡礼の民俗誌−』1980,日本放送出版協会
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