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●踊り おどり

ヨーロッパ アイルランド AD 

 西欧のダンスに対応するものとして一般的に考えられる“踊り”は,わが国においては“舞(まい)”と“踊り”の二つの概念に分けられて,古来から存在してきた。しかし明治になり西欧舞踊が移入されたことでこの区別は曖昧になり,広義的には,古典舞踊から歌舞伎まですべてのおどりを含む舞踊の総称として解されるようになってきている。ここでは,“舞”“踊り”それぞれの概念を明確にし,またその歴史過程のなかから生まれてきた日本独自の踊りの形式についても述べる。

【舞】肉体運動のうち,旋回を主とした表現で,すべるように,前後退をし,上半身,とくに手の振りに主体を置く。この点で,足の動きを主とする“踊り”と区別される。折口信夫は,舞を神懸りに導くまでの動き,踊りを,神懸りしてからの動作を正気で繰り返すところに発生すると説き,柳田国男は,踊りは行動であり,舞は行動を副産物とした歌または語り事としている。踊りが自発的躍動を原動力とするのに対し,舞はメロディーを主とし,囃子や物語によって引き出されるという違いがある。また,舞は説明的・物真似的動きが多くみられ,文学的要素をもつことを特色とする。踊りが,だれでもが参加できるものであることから広く民衆のあいだで育まれたのに対し,舞は選ばれた者や,専業芸能者によって舞われることが多く,専門的・舞台的なものといえる。古代から中世にかけては,外来芸能の舞楽の影響や,芸能が専門家の手のなかにあったために,“舞”が主流を占め,舞楽を中心にして,国風(くにぶり)のタマイ※注1※,倭(やまと)舞,東遊び,隼人舞,久米舞,盾伏(たてふし)舞などが記録にみえる。神楽にも採物舞や巫女舞があり,古来からの乱舞脈も整えられて,歌謡や語り物と結びつき,白拍子舞・曲(くせ)舞・幸若舞を生んだ。また奈良から平安時代にかけて伎楽や舞楽・散楽が大陸より伝わり,日本の舞は芸術的な高まりをみせた。この脈の舞を洗練させ自己の芸に取り込んで,最も美しい舞を完成させたのが,中世芸能を代表する猿楽者である。またこの猿楽や田楽のなかから能狂言が生まれ,囃子舞や小舞を演じた。江戸時代以降,わが国の芸能の主流となる歌舞伎は、その発生期には踊りを主としたが,狂言師の参加や,女舞・女能の影響もあって,舞の要素を大きく取り入れ,人形浄瑠璃から振りを学んで独自の舞踊を完成させた。ことばこそないが,その実態においては“舞踊”と呼ぶべき芸能が,江戸中期,歌舞伎の内部において生まれていたのである。一方,関西においては,能の影響を受けた上方舞(地歌舞)が,地歌を伴って踊られるようになり,踊りの要素の入らない独自の舞を完成して,江戸の舞踊と一線を画した。

【踊り】肉体運動のうち,跳躍を主とした表現で,上体よりも足の動きが重視される動作。西欧のダンスに近い動きであるが,わが国の場合,集団的で特殊な場を必要としない。舞が伴奏や囃子など動きの原動力を他者に求めるのに対し,踊りは自らが楽器を奏し,歌い,心の躍動によってリズムを生み,体を自然に動かすのである。したがって,踊りは,喜悦の感情表現に最も適した動作といえ,人間の喜怒哀楽をそのまま表現することができる。またその動きは,前述したように災厄を踏み鎮め,代わりに祝福を招き寄せるための足の動きが中心となる。『古事記』に天照大神の復活転生の呪法として踊りがなされたとの記述がある。〈天香山の小竹葉を手草に結ひて,天之室戸に空槽伏せて,踏みとどろかし,神懸りして,胸乳を掛き出でて,裳緒を番登におしたりき。ここに高天原ゆすりて,万の神とも笑ひき〉。

 専門の芸能者による踊りとしては,田楽法師により田楽踊が早く現れた。これは編木(びんざさら)・腰大鼓・鼓などを踊り手が鳴らしつつ隊形を変えつつ踊るもの(現在では全国に60カ所ほど残存)で,大陸から渡来した芸能と思われる。念仏聖が広めた躍念仏(念仏踊)は,念仏を唱えながら,鉦・大鼓を打ち鳴らし踊ることで,宗教的エクスタシーを感得するという信仰で,それ以後の踊りの系譜に大きな影響を与えた。死者の供養に念仏を唱えて鉦・大鼓を打つ念仏踊,さまざまな飾り物や歌に工夫をこらした風流(ふりゅう)踊・小歌を聞かせようとして踊る小歌踊など,中世後期に郷村を基盤として発展した踊りは,いずれも集団的・庶民的特色をもっている。これらの踊りはその後,各地の民俗芸能として定着し,祭りや盆行事の中心となってゆく。すべての踊りに共通していえるであろうことは,踊りは共同作業であり,それに付随する歌は個々の踊りをまとめる働きをし,囃子と足踏みは,地中・空中の悪霊を鎮めるためのものであったことである。村中が総出で足踏みをし,目に見えぬ敵を追い払おうとするいわば信仰上の作業であった。

 踊りは奏する楽器によって鼓(かっこ)踊・太鼓踊・銭太鼓踊臼太鼓踊,採物やかぶりものによって棒踊・傘踊・花笠踊・綾踊・灯籠踊,季節や目的によって盆踊・雨乞踊八朔踊・七夕踊・八月踊・田植踊,形態によって獅子踊・鹿踊七福神踊などと呼ばれている。

歌舞伎舞踊歌舞伎舞踊は,念仏踊や風流踊のなかから出発(出雲の阿国)し,その発展過程のなかで風流系の小歌踊を基礎に,舞の要素(囃子方)を取り入れ,さらに語り物と結んで独自のスタイルを創造していった。舞台を必要とする点や,物真似的要素“あて振り”を多用する点,囃子方のリードで踊りが進行するなど,その要素の大部分は舞の系譜に属しているといえる。しかし,基本的動作は旋回を旨とする舞ではなく,躍動的な踊りに近い。一曲の中心を“踊り地”と呼ぶ部分におき,出端(では)に始まり,引込みに終わる全体の構成上からも踊りに近い。歌舞伎舞踊が第一次の完成期を迎えるのは元禄から享保年間である。中村富十郎・瀬川菊之丞・水木辰之助らによって女方舞踊が完成される。この舞踊の特色は着物の袖や袂の使い方にあった。寛政から文化文政をへて幕末期にかけては“変化物”と呼ばれるジャンルが生まれた。これは一人で何役をも踊り分け,衣装も早変わりで着替えるという娯楽性に富んだものであった。三世・四世中村歌右衛門,三世坂東三津五郎などがその中心となって活躍した。なお歌舞伎は早くから舞踊に振りや劇を組み込んで,“舞踊劇”ともいえるジャンルを開拓してきたが,これはすでに中世に発達した能が舞と劇を組み合わせて成功させていたものであった。

【新舞踊】明治時代になると,従来の歌舞伎舞踊をより芸術的に高めようとする気運がおこってきた。その運動を指導したのは新劇界の人,坪内逍・で,彼は邦楽と洋楽を統合してそれに踊りを振り付け,日本的新舞踊劇を創造しようとした。だがその試みは結果として実現されなかったが,彼のまいた種があとになって(大正時代)「新舞踊運動」を生み出すことになる。まず1917年(大正6),藤蔭静枝が「藤蔭会」を結成,ついで花柳寿輔が「花柳舞踊研究会」を,中村福助が「羽衣会」を,花柳寿美が「曙会」をつくるなど,多くの新舞踊の会が生まれていった。そして,そのなかから歌舞伎役者ではない,新しい舞踊家が生まれた。

〔参考文献〕芸能史研究会編『舞踊』1970,平凡社

折口信夫「舞と踊と」『折口信夫全集17』中央公論社

柳田国男「踊の今と昔と」『定本7』

郡司正勝『おどりの美学』1957,演劇出版社

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